スクリーンショット_2017-11-17_20.13.07

スタンプラリー型の人生から抜け出して

小さい頃から
将来は公務員、できれば学校の先生になってほしい。それが無理なら銀行員。
と言われて育ってきた。(ちなみに最近は私がなることは諦めたようだが「せめて公務員と結婚してほしい」と言われている。どう考えても私みたいな女は相手の方から願い下げだと思う)

田舎の一般家庭においては、間違った願いではないと思う。

そして、人は「親」になった瞬間子供に関することは大概保守的になってしまうもので、自分は自由に生きてきた人でも、子供の幸せを願うとき、どうしても「安定」がセットになる。

安定した生活を送ってほしい気持ちもわかる。
結婚してほしい気持ちもわかる。

それはきっと、自分亡きあと子供を託せる先がほしいという愛情ゆえなのだ。

大人になってまわりが母親になるにつれ、そんな親の心理もわかるようになってきたけれど、子供の頃は安定を求められるたびに絶望していた。

それ、別に私じゃなくてもできることじゃない?

安定した場所でぬくぬく過ごす人生は、私の代わりにできる人がごまんといる。
たった1回しかない人生、みんなで同じスタンプラリーをして何が楽しいのだろう。
生意気にも、そんなことを思っていた。

そして私は、意図的にスタンプラリーから降りた

東証一部上場の "いい会社"を辞めて不安定の極みのようなフリーランス生活に突入し、まわりの結婚・出産という慶事を他人事として自分とは切り離して祝っている。

このくらい大きく「当たり前のレール」から外れると、まわりの変化に対して嫉妬も起きない。

「わたしはわたし、あなたはあなた」は、ただ唱えるだけでは心を安らかにはしてくれない。

自分の心に嘘をつかずに、本当に自分のやりたい方向に進んでいるという実感をもつ。
念仏を唱えるだけではなく、修行によって教えを体得してこそ、私たちは救われるのだ。

これは人生だけではなく、会社や組織の成長にも同じことが言えると思う。

Aを通過したらB、そしてCへ。
そういうスタンプラリーが、彼我を比べるきっかけになってしまう。

もちろん、ある程度の「型」や先人が通って来た道を参考にする態度は大切だけど、その道を通らなければならないというのは単なる思い込みだったりする。

山頂に行くために山登りの装具を買って行程を決めて…と準備万端でのぞむのもひとつの正しさだが、そこにこだわっていると「ヘリコプターで山頂へ行く」というそもそもの選択肢を見落とす。

さらにいえば、それは本当に登りたい山なのかをまず疑わなければ、様々な努力が徒労に終わる可能性もある。

私たちの人生は、スタンプラリーなんかじゃない。

むしろ本来は、真っ白な紙に地図を描いて、ビュッフェのようにほしいものだけとっていくスタイルのはずだ。

スタンプラリー型の人生から抜け出したとき、私たちは本当の意味で自分の幸せと向き合うことになるのかもしれない。

(Photo by tomoko morishige

サポートからコメントをいただくのがいちばんの励みです。いつもありがとうございます!