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私も、彼と同じ決断ができるだろうか。

社会人になったばかりの頃、「悪いことほど早く報告しなさい」と口酸っぱく言われていた。
私が就職した百貨店は、新人も急に最前線に立って接客しなければならない職場である。
つまり、何かミスをしたらそのままお客様にご迷惑をおかけしてしまう。

だからこそ先輩たちは何度も「ミスしたときほど早く報告してね」と言っていたのだと今になって思う。

しかし、悪い報告をするということは自分が批難されるということでもある。

早く報告すべきだと頭ではわかっていても、このくらいならバレないだろうとかもしかしたら自分の気のせいかもしれないとか、いろんな理由をつけて私たちは報告を先延ばしにしてしまう。
その結果として、事態が悪化してもっと怒られることがわかっていたとしても、だ。

だからこそ、悪い報告を即座に上げてきた人のことは大げさとも思えるほど称賛した方がいい、と私は思っている。

***

おとといの夜、「藤浪 コロナ検査へ」というニュースが流れ、野球ファンの間に激震が走った。
結果的に彼らは陽性と診断され、とうとうプロ野球選手にも感染者が出てしまった。

タイムラインにはいろんな意見が飛び交っていたけれど、私は「プロ野球選手感染者第一号」として名前を公表することを選んだ藤浪の決断に、プロ野球選手としての矜持を感じた。

そもそも、体の異変を感じてすぐに球団に報告する時点でかなり勇気のいることだったはずだ。

「単なる風邪かもしれない」
「申し出なくても、自分が気をつけて生活すれば平気かもしれない」

と、いくらでも申告しない理由を考えられたはずだ。

しかし共に練習し、近い距離で生活しているプロ野球選手にとって、1人でも感染者がでることは球団側の対応を変える一大事でもある。

だからこそ彼はちょっとした変化も見逃さず、すぐに球団に報告したのだと思う。

そして彼の決断で何より称賛すべきは、はじめから実名報道をしてほしいと球団に伝えていたことだ。

NPBはもともと、選手や職員がPCR検査を受ける場合はその旨を公表する方針だったようだが、個人名は伏せての報道も視野に入れていたはずだ。
プロ野球選手はほぼ公人とはいえ、家族や関係者への影響を考えると、個人名がクローズアップされるリスクは大きい。
直近の行動が報道されたりと、個人情報にまつわるリスクもある。

なにより、報道の時点で少なくとも藤浪は「プロ野球選手初のPCR検査受診者」だった。

その注目度の高さは事前に予見できたはずだが、それでも彼は「ファンの方々への啓蒙になるなら」と実名での報道を望んだ。

結果的に藤浪の検査受診の報道は大きく取り上げられ、味覚異常や嗅覚異常が初期症状のひとつである可能性について周知されることとなった。
すでに海外では初期症状の可能性についてメディアで言及されていたようだが、私も藤浪に関する報道ではじめて知ることができた。

もしこれが実名ではなく「阪神の選手」、もしくは「NPB選手」という表現だったら、きっと私たちの受け止め方はもっと違うものになっていたはずだ。

人は、自分が知っている人に対してより強く注意を払うようにできている。

もし名前が公表されていなかったら、「誰なんだろうね」と話題にはなっても、ここまで強く興味を惹かれ、本人の安否を気遣い、自分も気をつけなければならないという危機感をもつことはなかったかもしれない。

藤浪は誰よりも「藤浪晋太郎」という名前がもつパワーを理解し、たとえ自分が批判されたとしても公表する道を選んだのだ。

ずっとボールのコントロールに苦しみ、結果を残せずにきた藤浪にとって、今回の公表は決して簡単な決断ではなかったと思う。
応援してくれるファンと同じ数だけ、結果をだせないことに不満をもつファンもいる。
やっと復活しはじめた時期に、よりによって感染第一号として報道されることは、また彼への批判を生むだろう。
実際に、報道に対して心ないツイートもいくつか目にした。

それをわかっていてもなお実名報道を望んだ彼の知性と勇気に、プロ野球選手としての誇りを垣間見た気がした。
藤浪はいつでも、誇り高く自分で自分の道を選んでいる。

もし私が彼と同じ状況に立たされたとき、はたして同じ決断ができるだろうか、と自分に問う。

たいした影響力のない一般人の私でさえ、「感染したかもしれない」と公表することは怖い。
予防に落ち度があったのではないか、不要な外出をしたからではないか、と批難される図を思い浮かべると、とてもそんな勇気はでない。

だからこそ「悪いことほど早く報告しなさい」と口酸っぱく言われてきた教訓をきちんと体現した藤浪の姿を見ていると、年下ながら尊敬の念を抱いてしまう。

これからきっと、感染者は急激に増えていくだろう。
私たちにとっても決して他人事ではなく、感染の可能性を感じたり、感染したことを報告しなければならないケースもでてくるだろう。

もちろんコロナの件に限らず、生きている限りたくさんの「悪い報告」をしなければならない状況に直面するはずだ。

そのとき、自分の保身ではなく社会全体への影響や相手への想像力を働かせられるかどうか。

知性と勇気は、他人のためにこそ使うべき能力なのだ。

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