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人工美と自然美の調和

先日六義園に行って驚いたことがある。

歩道の砂利道を歩いていると、前方で係の人が箒を持って作業しているのが目に入った。

近づいてみると、彼らは散らばった歩道の砂利を中央に集め、畝を作るように綺麗な道を作り上げていた。

私はこの光景を見て初めて、歩道の砂利道は人の手で成形されていたことに気づいた。

思い返してみれば、日本庭園の歩道は庭園と砂利の間に土の部分があり、常に砂利は中心に集められている。

人が歩けばそれらは散らばってしまうので、定期的に砂利を中央に集める作業が必要なのだ。

これまでは何も考えずに歩いていた砂利道だったが、その光景を見てからなるべく砂利を散らさないように注意して歩くようになった。

そして歩きながら、この広大な庭園を維持することについて思いを馳せた。

そういえば以前兼六園に行った時も、常に数十人単位の人が庭の手入れをしていたのが印象的だった。

草むしりや雪よけ、剪定など美しい庭園を維持するには膨大な手間ひまがかかっている。

しかし鑑賞する側の私たちは、それを『自然の美しさ』として享受している。

山の中にある生の自然に比べれば、庭園の中の自然はむしろ人工的ですらある。

庭園に限らず観光地の自然は多かれ少なかれその美観を維持するために人の手が入っており、私たちはそんな『手入れが行き届いた』自然を鑑賞しては美しさを讃える。

もちろん手付かずの自然はいうまでもなく美しいものだが、庭園のように人工的に手を加えた自然に私たちが惹かれるのは何故なのだろうか。

自然な状態こそが美の頂点なのだとしたら、ただ植物だけを移植してきてそのあとの生育は自然に任せるのがよい、ということになるはずだが、どうやら私たちの文化はそういう発展はしなかったようだ。

庭師さんの庭づくり哲学は何かの機会に聞いてみたいものだが、庭園を歩きながら考えたのは、やはり人が人であるかぎり『自分たちの生きた証』の香りがするものに惹かれるものなのかもしれないということだ。

自然の前に、私たち人間は無力である。

しかし私たちは自然に手を加える力を持っている。

この100年ほどはいささか人工的な営みが勝ってしまっている感は否めないが、偉大な自然に対して微力ながら人間の営みの証を残したいという欲求は、古来から私たちの中に連綿と続いているものなのかもしれない。

ただし、その営みは本来人間自身のためではなく自然のために行うものでもあったはずだ。

間引きや剪定は単に見栄えをよくするだけではなく、木や植物の寿命を伸ばす意図もある。

つまり、生き物がよりその生き物らしく育つための補助が理想的な自然美と人工美のバランスだったのではないだろうか。

千利休が綺麗に掃き清められた庭を見た際に木を揺らして落ち葉を再現したように、『より自然な状態になるための不自然』は日本の美学として受け継がれてきたもののひとつだ。

自分の今の仕事は自然美と人工美どちらに寄っているのだろうか、と改めて考えさせられた春の散策だった。

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