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真摯なコミュニケーションは、煽動に打ち勝つか

昨日書いた「かわいがる」よりも尊敬を。という記事は、もともと「人が老害化する仕組み」というタイトルでもっと煽るかたちで書く予定のものでした。

図もそのために作ったもので、どちらかというと「若い女性」として下に見られる経験の方が多かった自分から見て、これはおかしいでしょう!と問題提起するような内容にしたいと考えていたのです。

しかし書こうとしてもなかなか筆が進まず、そうこうしているうちに年下の優秀な人たちと接する中で「私も彼らに自分が受けたのと同じようなことをしようとしている」と気づき、自戒をこめて書き始めた途端するすると書きあげることができました。

そのとき思ったのは、「私はつくづく人を煽ることに向いていない」ということ。

自分の文章を振り返ると「〜かもしれません」「〜のような気がします」という表現が多くて主張が弱いし、人が議論したくなるようなつっこみどころを意図して作り上げられていないのがダメなところだという自覚はあるのですが、意識していわゆるはてなダイアリーのような口調で書こうとしてもどうも筆が進まないのです。

私はやっぱりnoteの空気感があっているなあ、と。

いわゆるバズるコンテンツというのは、ひとつのテーマに対して自分の立場を白と黒のどちらかを明確にし、自分と主義主張が異なる人を下に見る書き方が多いものです。

さらに建前としてはAと言われているけれど、実際にはみんなBだと言いたいと思っているような「本音」のコンテンツも議論につながりやすく、バズるコンテンツになります。

はてなダイアリーに投稿される匿名の文章はこの2つの要素を満たしていることが多いため、定期的にバズるコンテンツが生まれるのだろうと思います。

ここまでわかっているなら自分もやってみればいいじゃないかと言われそうですが、私はどうしてもなにかを書く上で極端な立場をとれないなと感じます。

それはもちろん不用意に人に叩かれる "炎上"につなげたくないという気持ちもありますが、一番の理由は多様性を無視したくないと思うからです。

何かを書く以上、ひとつのテーマに対して「こう思う」というオピニオンを表明することは重要です。

しかし自分の意見をもつことと、相手の意見を否定することはまったく別のはなしのはず。

もちろん「保育園落ちた日本死ね!!!」のブログのように、強い言葉こそが世の中を動かすこともあります。

また煽るからこそ考えるきっかけになることもあるし、人に見てもらう機会を増やすという意味でも時々スパイスとして使うことも理解できます。

しかし以前徳力さんが「キングコング西野騒動とトランプ騒動の共通点に感じるモヤモヤした違和感」という記事の中で書かれていたように、アジテーター(扇動者)の立場をとる人は煽ることによって憎しみの連鎖を作りだすことが多いもの。

私が無意識にこうしたアジテーターの立場を回避するのは、憎しみの連鎖に巻き込まれたくないという気持ちが大きいのだと思います。

すぐに効果が表れなかったとしても、一瞬の興味関心を得るのではなく少しずつ「いいね」を積み上げていきたい。

真摯なコミュニケーションは煽動に打ち勝てるのだろうか。

自分自身を使って、この壮大なテーマに対して実験をしていけたらと、そんな風に考えています。

(Photo by tomoko morishige)

私のnoteの表紙画像について書いた記事はこちら。


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