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「幸せになって」の切なさ

お祝いごとがあると、人はまず『おめでとう』を口に出す。そして『幸せになってね』とその後の幸福を祈る。

特に深い意味はない、定型文としてのお祝いの言葉。

でも、その裏には『自分が幸せにすることはない』という意識がある。相手自身の力で、もしくはその人が選んだ環境によって、自分の預かり知らぬところで幸せになるのだろう、と。

ほとんどの場合、人は自分の発した言葉が無意識に含んでいる意味を考えないし、受け手もそれを感じることはないだろう。

『一緒に幸せになるはずだった人』に言われた場合を除いては。

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私は自分がおめでたいと思わないときはおめでとうと言わないの、と紅茶の入ったカップを回しながら友人は言った。

世間的には正しい言葉でも、自分と相手にとって不誠実になことは言いたくないから、と。

ただ、おめでたいとは思えなくても、幸せになってほしいという気持ちは変わらない。

自分が幸せにすることはできなくても、せめて、別の人に守られて幸せに暮らしてほしい。

そんな想いから発せられた『幸せになって』の言葉には、ある種決別の意味が込められているように思う。相手との決別と、あの頃の自分との決別。

他の誰かに託すことで幸せになるのなら、その人が選んだ未来の先に幸福があるようにとただ祈るしかない。自分にその役割がなかったことは、まったくおめでたいことではなかったとしても。

カモフラージュされた『幸あれ』の言葉の裏にそんな切なさを読み取った私もまた、彼の未来が幸福であるようにと祈っている。

手紙には 愛あふれたり その愛は 消印の日の そのときの愛(俵万智)

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