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「いい体験」に感動は必要か?

雑誌やSNSでは、何かの記念やご褒美として購入するラグジュアリーブランドのアイテムこそが「一生モノ」として紹介されている。子供や孫の代まで受け継ぐことまで見越して、多少値が張ったとしても清水の舞台から飛び降りる感覚で投資として購入するモノ。

それらを見ていると、「一生の付き合い」になるかどうかは購入以前に決まっているものだと錯覚する。

しかし実際に家の中を見渡してみると、買ったときにはこんなに長く使うとは思っていなかったものほど長く我が家に居着いていたりする。特別使い勝手がいいわけでもないし、これじゃないといけないという理由もない。ただ買い換えるほどの理由もないので、気づけば十年、十五年の年月をともに過ごしている。「一生モノ」は、無意識に年月を重ねた結果の産物の方が意外と多いのかもしれない。

幸田文の随筆に、いつのまにか同じ爪切りを三十年以上使い続けていたことを語るエピソードがでてくる。特別こだわりをもって選んだわけではないけれど、壊れもせず刃こぼれもせず、気づけば何十年も同じ爪切りが自分の爪を整えてきたことへの感慨が語られていた。

「生活に馴染む」は生活雑貨の売り文句としてよく使われるが、本当の意味で暮らしに馴染むとはこういうことなのだろう、と思う。何十年も経ってからふと、ずっと側にいて生活を支えてくれたことに気づく。たとえ有名なブランドでなくとも、何気なく選んだものであっても、積み重ねた時間が「一生モノ」を作るのだ。

これはモノだけではなく、体験にも同じことが言えるように思う。

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余談的小売文化論

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「知性ある消費」をテーマに、現代の消費行動や理想論と現実的な問題のギャップについて考え、言語化しています。「正解」を語るのではなく、読み手…

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