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自分の "器"を育てる時間

ここ数ヶ月の間に「峠」「竜馬がゆく」と立て続けに司馬遼太郎の幕末ものを読んで思うのは、20代の過ごし方が人物を作るということ。

それぞれの主人公である河井継之助と坂本龍馬は、どちらも20代の前半はまだまったく世に知られていませんでした。

むしろ、優等生には程遠い問題児で、どちらも勉強はほぼ独学。

河井継之助は「学ぶとは自分の中に "原則"をつくることである」として、たくさんの書物を多読するのではなく自分の気に入った書籍のみを丹念に読み、写し書きまでして自分の精神に取り込んでいました。

坂本龍馬も幼少期はまったくの落第生で学問など一切していなかったにも関わらず、学問の必要を感じてすぐ武市半平太から勧められた「資治通鑑」を己の力のみで読み下すことで学んだ人です。

そんな2人が若い頃勉強もせず何をしていたかというと、ただまちを歩いてはふらふらしたり、じっと寝転がって思想に耽ったりして、周りを心配ばかりさせていたのです。

「よほどの阿呆か大人物か」
阿呆と天才は紙一重とはよく言ったものです。

しかし、彼らはそうした時間を経て自らの器を育てていたのだと思います。

「考える」、そしてその先にある「自分の軸を持つ」には、一見無駄に思えるような空白の時間を若い頃にどれだけ持てたかに左右されます。

隙間を埋めるように不必要なまでに知識を詰め込んだり、あちこちで小さな仕事をして自らの思想を育ててこなかった人は、ある一定のところで成長がとまってしまいます。

「峠」の中で河井継之助も言っていたように、矛盾ばかりの世の中で、前後左右どちらに向かうかを決めるのは、ただ一つ、自分の思想という軸があればこそできることだからです。

自分の頭では何も考えず、世間一般で正しいとされていることに沿っていれば、ある程度のところまでは成功できます。
天下泰平の世ならば、そのまま高い地位に収まって安穏と一生を過ごすこともできるでしょう。

しかし、何か事を成そうとするならば、2つの正しい道の中から己の道を選ばなければならない瞬間が数多く訪れます。
もちろん、どちらをとっても地獄という選択肢の中から苦渋の選択を迫られる場面もあるでしょう。

善かれ悪しかれ、どちらの状況においても必要なのは「決めること」。

決められずにずるずるいってしまうのが、負け戦への一番の近道になってしまいます。

今や10代でも起業できる世の中ですし、大学生が就職前からインターンなどで社会人と同じように仕事をすることもできるようになりました。

そうやって実社会を体験してしか得られないこともあると思いつつ、若いうちからあまりに社会適合しすぎるのも、その人の器を狭めてしまいそうで不安に思うことがあります。

私自身も大学時代はバイトと遊びに明け暮れてじっくり「考える」時間をとらなかった人間で、だからこそ今「考える」必要に迫られています。
しかし、外的要因によってある程度幅が定まってしまってからよりも、まっさらなフィルターで「なぜ?」と疑問をもつ力があるうちに、器を育てる時間をとってほしい。

もちろん若い頃の思想や視点なんて理想一辺倒で、間違っている事だらけで、後から振り返るとバカだなと思うものばかりですが、そうやって行きつ戻りつ自己否定しながら自分の軸を磨く過程を「成長」というのではないでしょうか。

自分の思想を育てる時間を持つ。
年齢問わず、自分の器を広げるのはそうした「考える」時間をどれだけもてたかによるのではないかと思うここ最近です。

(Photo by artnart
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