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大人になるほど、白と黒の境界線はあいまいになっていく。

このところ毎日目にする「炎上」という言葉。

先月話題になった事件や芸能ニュースなんて私達はすっかり忘れてしまっているのに、時にそれは家庭の崩壊や自殺すらも招いてしまう。

対象は移り変わってもその仕組みは変わらなくて、世の中で"正しいとされていること"が大きなうねりとなって、正義の暴力を振るう。

高畑裕太「強姦」報道の誤りは、事件報道の構造に関わる深刻な問題だ」という記事を読んで、ふとリーガルハイの古美門のセリフを思い出した。

本当の悪魔とは、巨大に膨れ上がったときの「民意」だよ。
自分を善人だと信じて疑わず、薄汚い野良犬がどぶに落ちると一斉に集まって袋たたきにしてしまう。
そんな善良な市民たちだ。

もちろん人を傷つける行為は非難されるべきことで、被害者と同じ経験をしたことがある人は怒りも覚えるだろう。

ただ同時に、世の中に100%の悪意が本当に存在するのだろうか、とも思う。

前述の事件については、記事を全面的に信用するとしたら私達の身の回りにもありそうな「お互いの認識の行き違い」でしかない。

強引なところもあったようなので相手の女性も傷ついただろうし、自分が彼女の立場だったら強姦されたに近い感情をもったかもしれない。
その傷ついた気持ちに配慮すべきだとは思う。

しかしだからといって、彼の人生を再起不能になるまで国民総出で叩きのめす必要があったのかどうかは私にはわからない。

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個人のこうした過ち以上に、企業の不祥事や国会議員の不正といった「対象が明確でない組織的なもの」はこうした攻撃を受けやすい。

対象が明確でなくなればなくなるほど、傷つく相手が見えづらくヒートアップしていくものなのだろう。

国や人種間の対立も、個人単位でみれば仲良くできるのに国家レベルになった瞬間に罵詈雑言のオンパレードになってしまう現象とよく似ている。

ただそこにも必ず属している"人"がいて、組織が大きくなればなるほどたくさんの人が攻撃を受けて苦しむことになる。

国家レベルの話でいえば、時に対立してしまう周辺国にも友人がいると、簡単に「◯◯人はこれだから」と紋切り型で話す人にカチンとくるだろう。

私自身、やっぱり友人がいる国のことは悪く思えないし言いたくもないので、これは人間の性なんだろうと思う。

でも私は日本人だから、その人の主張も理解はできたりする。

自分の知っている世界を広げると、そういう白でも黒でもない、曖昧なグレーの範囲が広がっていく。

私の好きな随筆家・森田たまさんの作品の中で、特に好きな部分がある。

年をとって経験が増えるほどすぐに決断できるようになると思っていたけれど、実際には逆。
経験が増えるほどあっちの意見もこっちの意見も理解できるから、どんどん優柔不断になっていく。

細かい表現はうろ覚えだけれども、つまり大人になるということは自分の知っている世界を広げることで、グレーの範囲を広げていくことなんじゃないかと思う。

「正義の反対は、悪ではなく別の正義である」
という有名な言葉がある。

白と黒、というと白が正義で黒が悪のイメージだが、ひょっとすると国や地域によっては逆のイメージをもつ人もいるかもしれない。

それくらい、私達がもっている"常識"というのは曖昧なものなのだ。

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すぐ白と黒に断罪してしまうことのなにが悪いかというと、相手を追い詰めて風評被害を含む二次被害を起こしてしまうことはもちろんだが、なによりそこで思考停止に陥ってしまうことなのではないかと思う。

犯罪者は全員悪人だ。そんな奴らみんな殺してしまえ。

そこで思考停止に陥ると、再犯を防止したり罪を犯した人を更生させるための手段を誰も考えなくなってしまう。

誰かを裁くという権限は司法の名の下、裁判官に委ねられているのであって、私たちが論ずるとしたら「二度と起こさないためにどうするか」「何が問題だったのか」という点なのではないかと思う。

例えば東野圭吾の「手紙」という作品がある。

強盗殺人という罪を犯した兄をもつ主人公が、「殺人犯の弟」というどこまでも付きまとうレッテルに悩み苦しみながら生きて行くというストーリーだ。

被害者の遺族も苦しいが、加害者の家族もまた別の苦しさがある。

そして犯罪者の弟であるということがわかったときの周りの反応も、ひどいと思いつつ自分も同じ反応をしてしまうのではないかと思わずにはいられない。

こうした問題は、一朝一夕に解決できるものではない。

それでも、フィクションとはいえそれぞれの心境を知り、考えるきっかけをもつことで相手への無用な攻撃を避けることができるのではないかと思う。

自分の世界を広げるということ、教養をつけるということは、人を傷つけずに接する術を身につけることなのかもしれない。

何かの出来事に対して脊髄反射的に攻撃の言葉を口にしそうになったら、まずは「自分はまだ世界の一部しか知らなかったのだ」と省みるようにしたい。

平和という言葉を口にしながら、別の平和を語る相手に拳を振り上げるような人間にはなりたくない。

そのためにもいろんな場所に友人を作り、自分で足を運び、本を読み、体験して、広い広いこの世界で知っていることの範囲を少しずつ広げていきたいと思う。

攻撃するパワーを、何かを作り出すパワーに変えるために。

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(Photo by tomoko morishige)

私のnoteの表紙画像について書いた記事はこちら。


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