「幸せってなに?ならなきゃいけないの?」
高校生の頃に流行った携帯小説「Deep Love」。
その中で主人公のアユが放った言葉に衝撃を受けたことを、昨日のことのように覚えている。
「幸せって何?ならなきゃいけないの?」
たしか、進路相談のシーンで先生から「そんなんじゃ幸せになれないぞ!」と言われて返した言葉だったように思う。
人はみな幸せになりたいと思っている。それが当たり前で、すべての前提にあると思っていたので、子供心にその問いに虚をつかれた気がした。
幸せってなんなんだろう。
「いい学校に行って、いい会社に入って、幸せに生きてほしい」
当たり前のように両親や先生が願ってくれる『私の幸せ』は本当に私自身の幸せなのだろうか。
『幸せ』を見つめ直すきっかけになった出来事だった。
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そんな過去の出来事を思い出したのは、「人生の目的は『幸せ』だけか?」という問いかける記事に出会ったからだ。
世界的にベーシックインカム導入の機運が高まる中で、改めて人間は何によって幸福を感じるのか、人生の目的とは何かを考えるタイミングがきている。
だからこそ私は、幸せ以外にもあらゆる指標を用意して、私たちが気にかけるべきことについて民主的な話し合いをしなければならないと思います。
(中略)
私たちが考えるべきことはたくさんあります。幸せに反対しているわけではありません。ただ、幸せを唯一の基準にするのは、単純すぎると思うのです。
ここで言われている「幸せ」とは、過ごしやすい状態のことだ。
お金に困ったりすることなく、安全が保障され、健康で文化的な生活を送ること。そんな状態を私たちは幸せと呼ぶ。
しかし一方で、そういう安定した状態に自分の幸せを見出せない人も少なからずいる。寝食を忘れて没頭するものがある、自分の存在意義を自分が作ったもので残したいと思う人々だ。
例えば、太宰治はまさに自己破壊によって人間の真理に迫り続けた作家だった。
社会に馴染みきれない自分、どこか欠けている自分だからこそ書けることを突き詰め、幸福によって満たされることから逃げ続けた結果、その思想を『人間失格』という名作に昇華させた。
満たされないこと、鬱屈した気分を抱えることは、人に衝撃を与えるモノを作る上で欠かせないものなのだ。
そこまで追い詰める人はほんの一握りだが、人には「幸福に過ごしたい」という気持ちとは別に、「自分の存在意義を作りたい」という欲求がある。
幸福への欲求が満たされた時、私たちが次に欲しがるのは自分はなぜこの世に必要なのか、という問いへの答えだ。
誰だって他者に肯定され、必要とされ、臨終の床の中では多くの人の涙とともに看取られたい。
その欲求が表れているのがSNSであり、最近にわかに「コミュニティ」というワードが盛り上がっているのもそこに本質があるのだと思う。
私たちが求めているのは「幸せになること」ではなく、「自分の生きる意味」なのだ。
そして「なぜ私はこの世界に必要か」の答えを誤ったところに見つけてしまったり、ひとつの居場所に固執することによって、人は壊れていく。
幸福に生きるための下地が整っている今、私たちが今の子供たちに教えなければならないのは、自分という存在への意味づけの仕方、それを常に問い続ける姿勢なのではないかと思う。
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冒頭の問いに今の私が答えるなら、きっとこう言うと思う。
「せっかく生まれてきたならば、自分の人生という『枠』を思いっきり使い切るのも悪くない。
そのためには、環境というステータスよりも、自分の人生の意義を測るための軸にこだわった方がいい。」
私たちはいつも、「何のために生きるか」という問いの前に立たされている。
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(Photo by ikepon)
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