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私の発信は、「思考の補助線」でありたい

先日、とある打ち合わせの際に「最所さんのnoteは思考の補助線のような存在ですね」と言っていただいた。
私の発信スタンスは、まさにこの一言に集約されるのかもしれない。

noteでもTwitterでもイベント登壇でも、何か公に言葉を発する際に心がけているのは、小林秀雄が書いたこの一節だ。

私の発信哲学は、「批評の神様」と呼ばれた小林秀雄の考え方をベースにかたちづくられているといっても過言ではない。

批評とは何のためにあるのか。価値ある批評とは何か。
誰もが簡単に論客になりえる時代だからこそ、人を傷つけるための批評ではなく世の中をよくするための言葉を発するために、「批評」という表現方法が再考されるべきだと思うのだ。

小林秀雄は、批評とは突き詰めれば自己批評・自己理解であると説く。

私達は、相手を語ることによって自己を語り、反省的評言によって相手を論じている、そういう事をやるものである。
つまり批評精神の最も根源的なもの、純粋なものと辿って行くと自己批評とか自己理解とかいうものを極限としている事がわかって来る。

誰かの創作物に対して好き勝手に感想を述べるのは批評とは呼ばない。
込められた思いや表現されているものを丁寧に読み解いた結果、自分は何を学び得るか。
その発露を「批評」と呼ぶのだと私は理解している。

小林秀雄は、集団として信じることに警報を鳴らし続けた批評家である。
人は集団的になると、発言にも思想にも責任を持たなくなるからだ。

「本当に信ずるものがあるなら、わざわざ徒党を組まずとも己の中で信ずればよいのだ」

集団的イデオロギーの危険性は、ヴァーツラフ・ハヴェルも「力なき者たちの力」の中で繰り返し説いていたことだ。

地縁や血縁が希薄になるにつれ、イデオロギーを共有することで形成されたコミュニティがある種の「故郷」として人々の心のよりどころとなっている。
しかし集団的に信じる力が強まっていくと、人々は「理性、良心、責任」を捨て去ってしまう。
社会主義体制化のチェコ・スロヴァキアで彼が見た風景は、現代日本の私たちと共通している。

勝海舟も大江健三郎も、私が知性を感じる人物はみな一様に、言葉を変えながら同じことを語っている。

どの時代も、世論は移り気で無責任なものだ。
「みんな」が言っているから攻撃していい、暴れていいという集団心理が、古今東西のあらゆる悲劇を生み出してきた。

正義の暴走は、無責任な集団によって起こる。

ではどうすれば自分自身の「信ずること」を得られるのか。
小林秀雄は、「政治と文学」の中でドストエフスキーの日記を引きながら本人だけが得られるかけがえのない体験の重要性を語る。

なんとなく耳障りのいいスローガンに盲信するのではなく、自分のストレス発散のために他者の怒りを肩代わりするのでもなく。
自分が体験し、感じ、内側から出てきた思想こそが真に信ずるべきものなのだと彼は説く。

そしてもうひとつ、批判においては「積極的肯定」が不可欠であるとも主張している。

ここで語られている「分析あるいは限定」こそが、不満を課題解決に導くための手段だと私も考えている。

私たちが抱いてはいけない感情はない。
傷つけられたら怒り、悲しむのは当たり前のことだ。
その感情を吐露せずにはおれないのも、また人間の性である。

しかし感情論で生まれたムーブメントが、血を流すことなく成功した事例がこれまであっただろうか。
むしろただ対立を煽っただけで、解決が遠のいてしまった事例の方が多い気がしてならない。

本当にその課題を解決しようと思うならば、何かを批判するだけではなく解決のためのアクションにつながる「対話」が不可欠だ。
お互いの立場を理解しながら落としどころを見つける努力を放棄して自分の要望だけ通そうとしても、摩擦の方が大きくなるのは当然ではないだろうか。
そしてたった一回声をあげただけで満足せず、長く関わり「続ける」ことだ。
続けることでしか、物事は本当の意味では変わらないのだから。

しかし、異なる立場を理解するのはとても難しい。
怒りや悲しみの感情は、冷静な分析や対話を阻害する。
説明しても一切受け入れようとしない姿勢の人間と、根気よく対話を続けられる人はいないだろう。

だからこそ「Aだ!」と凝り固まったまま暴走しそうな感情に、「もしかしてこんな考え方もあるのでは?」と提示することで思考の幅を広げるきっかけを作れたらと思いながら、私は日々発信をしている。

もちろん私自身も先入観や感情論で語ってしまうことはあるし、勉強不足を感じることばかりである。
しかし自分がそういう生き物であると自覚していれば、途中でハッと気付けることもあるのではないかと思うのだ。

冒頭で引用したように、私は自分の考えが正しいと思って書いているわけではない。
ただ、自分はこう信じていると新たな視点を投げかけることで、対話や課題解決の糸口が見つかるきっかけになることがあるかもしれないと考えているだけだ。

思想は、立派に作り上げたものを誰かに押し付けるためのものではない。
ひとりひとりが、自分だけの「信ずるもの」をもつことが本当の思想なのだと思う。

それぞれが信じるものを素直に信じられるように、他人の意見やイデオロギーを自分のものだと思い込んでしまわないように、そっと寄り添う存在になれたら。

私が目指す「知性ある消費」は、そうした思想的に自立している消費者によって作られていくのだと考えている。

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