私にとっての生理食塩水
私は昔から、自分の好きな人たちを「生理食塩水」と呼んでいる。
人と建設的な議論や充足感のある対話をするためには、お互いの濃度を調整する時間が必要だ。
同じ日本語を話して、同じテーマで話をしていても、なんだか噛み合わなくてお互い空回りし続けるときは、この「濃度」がうまく調整できないままに話していることが多い。
人の意見なんてそう簡単に変わらない。
私たちにできるのは水溶液の濃度、つまり同じ視点に立って話そうとお互いが努力すること。ただそれだけなのだ。
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ナラタージュという小説の中に、
「君には、ほかの相手よりも正確に僕の言葉が伝わっているという実感がある」
というセリフがある。
実はほとんどの場合、発した言葉は正確には伝わらない。
書き手の思いは受け手との化学反応によって変化して、そこから新しいものが生みだされていく。
若松英輔は、「詩は、書かれた時に誕生するのではない」と言った。
「未知の他者によって読まれることによって、本当の意味で詩となる」のだと。
それでもときどき、私の発した言葉をそのまま「読める」人がいる。
先ほどのナラタージュのセリフは、こう続く。
「そういうのは危険なんだ。」
生理食塩水に浸りすぎていると、少しずつ半透明の膜が溶けていく。
私とあなたを分かつものが、だんだんと曖昧になっていく。
だからきっと、ときどき濃度が違うところへ行って、自分の膜を取り戻す。
そして濃度の違いに疲れたら、また生理食塩水に浸って回復する。
人間関係はずっとこの繰り返しなのだ。
ただ、私たち自身の濃度も常に変化していく。
読んだもの・聞いたこと・目にしたもの・体験したこと、そういう「自分の中に取り入れたものたち」によって。
一緒にいたいから同じものをインプットするのか、インプットしてきたから同じ時間を過ごす機会が増えるのか。
居心地のいい場所を守る努力をするのか、居心地のいい場所へ移れる力をつけるのか。
鶏が先か、卵が先か。
それはもう「キメ」の問題だけれども、ただ誰にでも必要なのは、自分が自分に戻れる場所、つまり嘘偽りのない言葉が伝わる人たちのそばにいることだ。
怪我をしたら、ばんそうこうを貼ってくれる場所がある。
そのことを知っているだけで、人はどれだけでも強くなる。
「今、私の発言をわかってもらえた」
と安心できること。
それがきっと、その人にとっての「居場所」なのだろう、と思う。
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