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「感覚」についての覚書

週末、ずっと行きたかった「江戸絵画の文雅」展に行ってきた。

展覧会の構成や出光美術館の設えも素晴らしく、すべてが調和した『美の空間』といった趣で、久しぶりに何も考えず目の前のものに没頭した時間だったなと思う。

いい展覧会に行くといい作品に出会い、世界を見るための『新たな視点』を得ることができる。

今回はその中でも、尾形乾山の「梅・撫子・萩・雪図」を見て、最近ずっと考えてきた『感覚』と『意味』について自分の中で整理できたので覚え書きとして。

「梅・撫子・萩・雪図」についてはGoogleで画像検索してもらえればと思うのだけど、4つの掛け軸でひとつの作品になっている。

春の梅、夏の撫子、秋の萩、冬の雪。

絵には季節の歌が添えられ、感覚としても意味としても両方楽しめるように作られている。

この作品を見た瞬間、説明を読む前から遠目にも『春夏秋冬にあわせて連作になっているのだな』とわかったのだけど、その瞬間に『感覚とはこういうことなのだ』と腑に落ちて理解できた気がした。

ツイートにも書いたけれど、「梅・撫子・萩・雪図」の掛け軸の色は私たちのイメージする春夏秋冬の色とは少し違う。

春の若葉色、夏の空色はイメージに近いのだけど、秋はどちらかというと萌黄に近く、冬は銀杏並木のような色が使われている。

色の意味から考えるとこの作品を『春夏秋冬』と判断するのは難しいけれど、直感的にこの配色は春夏秋冬を表しているのだと『わかる』こと。

小林秀雄や岡潔の使う『わかる』という言葉の意味は、こういうことなのだとそのとき深く理解できた気がした。

理論の積み重ねではなく、なぜかわからない、理由を説明できない『わかる』。

そういう種類の『わかる』は、たしかにある。

数学する身体」の中に松尾芭蕉のこんな言葉がでてくる。

ものの見えたる光いまだ心に消えざるうちにいいとむべし
もの二つ三つ組み合わせて作るにあらず 黄金を打ちのべたやうにてありたし

創作はよく『0からではなく既存の何かを組み合わせたもの』と言われる。

しかしそれは後から解釈する側の理解であって、創作者はAとBを組み合わせることをはじめから意識しているわけではない。

以前高橋祥子さんのゼミで、死生観の議論の中で、死の定義として『身体感覚も個性のひとつなので、いかに技術が発達して電脳世界に生きられるようになっても肉体が滅びたらそれは死だと私は思っている」という話がでてきた。

今の私が解釈するに、身体感覚というのは『わかる』ために不可欠なもので、身体という感覚器官を失った瞬間、人は理論と意味の世界にしか生きられなくなるということなのではないか、と思った。

朝焼けの海を眺めるときのしみじみとした寂しさや、紅葉する山の中でカサカサという音だけが響く静けさや、異国の地に降り立った瞬間の暑気と共に迫ってくる街の匂い…。

そういった『感じる』体験を経ることなくして、直観として『わかる』ことは難しいのではないか、と。

意味を積み重ねて作るものと、感覚を積み重ねて作るもの。

どちらに優劣があるわけではないけれど、今のところ人間にしかできないであろうと思われるのは後者のはずだ。

それなのに私たちは、あまりに意味に囚われすぎる。

と言いつつ、私自身も解釈し、意味づけすることが好きなので、自戒を込めて思うことでもあるのだけど。

あと「梅・撫子・萩・雪図」を見てもうひとつ感じたのは、『文化』という感覚もあるということ。

例えば、この4つが並んでいることで春夏秋冬を感じるのは、私たちが四季のある国に生まれ、また無意識のうちに4つの季節を色分けして提示されたものを目にしてきたからだ。

以前イギリス人によって書かれたエッセイの中で『どんなに日本語が上達しても、会話における比喩で坂本龍馬を出された際に共感ができないのでネイティブにはなれないと思う』といった趣旨の話を読んだことがある。

これは私も英語の記事を読んでいてよく感じることで、語学習得と文化への理解は切っても切り離せないものだと思う。

スラングのニュアンスや会話の中で笑いが起きる感覚も、その文化的背景を理解しなければ直訳だけでは理解が難しいことも多々ある。

どんなに機械が瞬時に英語を翻訳してくれたとしても、私たち自身が身体性を持ち、独自の言語を話す以上は、その言葉が使われている文化的背景への理解なしに本当の意味で『わかる』ということは難しい。

だからこそ自分自身がその言葉を自分の身体を持って話せた方が『わかる』ことは多いし、そういう意味で語学を学ぶという行為はなくならないだろうなと思う。(言葉をツールとしてしかみていない人にとっては機械で十分だろうけど)

と思いつくままにいろいろ書いてみたけれど、要は、『わかる』ということは意味があることばかりではなく、無意味だが大切なことも『わかる』人であることが、人間的修養において重要なのではないかと、最近はそんなことを考えている。

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今日のおまけは『人に任せるということの本質』について。

自分の最近のnoteを見返していたら、ほわほわしたことばかり書いていて危機を感じたので(?)たまにはビジネスっぽい話をば。

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