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男女の関係もまた、『君子の交わり淡き水のごとし』

「好きになるのはいいが、惚れてはいかん」

何か事を成そうという人は、相手を好きになる感受性と共に、『のめり込みすぎない』冷静さが必要なのだと思う。

惚れるということは、相手に魂を預けることに他ならないからだ。

それは、恋愛においても同じこと。

『君子の交わり淡き水のごとし』は、すべてに当てはまる金言だ。

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『竜馬がゆく』の中で、フランス製のおしろいを前にした竜馬が3人の女性のうち誰に贈るかを思案する場面がある。

将来の妻となるおりょう、身分違いの恋だったお田さま、そして『嫁にしてもらえなければ腹を切る』とまで言わせた千葉道場の娘・さな子。

この場面で竜馬は『君子の交わり、淡き水のごとし』という言葉を思い出す。

もちろんこれはフィクションなのであくまで物語上のエピソードではあるが、事を成す上で『惚れすぎない』というのは重要なことではないかと思う。

同じく司馬作品の『峠』の中でも、主人公の河井継之助がこれ以上は情がうつるからという理由でお気に入りの遊女のもとへ通うのをやめたというシーンもあった。

世の中には情が薄く浮気者の気がある人も多いけれど、天命を背負う人にとって自らの愛情にブレーキをかけることは、一種の防御本能なのかもしれない。

恋とはライオンのようなとのであり、猫や犬のようにてなづけられるものではない、と説いたのはどの偉人だったか。

日常生活に取り入れるには、『恋』というのはあまりに獰猛な性質を帯びすぎているということは、名だたる偉人の誰もが語るところである。

一方で、恋というのは一種の破壊衝動に近いものがあるからこそ、芸術を志す人には必要不可欠なのだろう。

不足感や絶望感なしに、芸術はうまれない。

それでも優れた芸術家というのは、相手には溺れすぎず、実際は『恋』に溺れているだけ、という気もするのだけれど。

1人を心から愛し、そのために命を燃やすのもまた素晴らしい人生だと思う。

しかしその一方で、自分の天命のためにあえてブレーキをかけるのもひとつの在り方だ。

あえて深入りをしないこと。

友情も、愛情も、すべては『君子の交わり淡き水のごとし』。

人生の主体を自分が持ち続けるためには、あらゆる対象と適度な距離を保つことが必要なのかもしれない。

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