概念になったとき、人は神になる
「じゃあさ、イチローと大谷はどっちがすごいの?」
そう聞かれたとき、私の口から無意識にでたのは
「イチローに関していうと、もはや彼は概念だから。つまり神」
という言葉だった。
自分で発しておきながら、その瞬間は3割くらいしか言葉の意味を理解していなかったのだけど、一週間ほど思考を寝かせてみて思ったのは、概念に昇華したとき人は神になる、ということだ。
前述の例でいえば、『イチロー』という存在はすでに、『すごい』という言葉を超越している。
そしてそれぞれの人の中に『イチローならこれくらいやるだろうな』という期待とも想像ともつかないイチロー像なるものがある。
野球好きの中では有名な『イチロー、1打席3安打』という誤植エピソードがあるのだが、これも他の選手ならいざ知らず、イチローが枕詞につくだけで『もしやイチローならそんなこともあるのでは!?』と思わせる力がある。
(ちなみに、1打席では無安打か1安打しかありえないので、この誤植は恐らく『3打席1安打』の間違いだと思われる)
神とは、解釈される側の存在である。
預言者たちの口を通して語られる神の言葉は、時代にあわせて解釈され、聖書やコーランとしてまとめられてきた。
つまり、『すごい』と言われているうちはまだ人間の範疇で、どんな言葉を吐いても、どんな振るまいをしてもまわりが勝手にその意図を解釈しはじめたとき、少しずつ神に近づいていく。
さらに何もしなくても勝手に想像され、解釈される『概念』になったとき、人は神になる。
イチローを例にとって言えば、彼が今突然引退したとしても、明日もあさっても1年後も、ほとんどの人の心の中でイチローは安打を量産し続ける。
そして彼が何もしなくても、私たちの心の中にいるイチローは折に触れてこう語りかけてくる。
『準備というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していくこと』
『努力を努力と思わないレベルまで引き上げなければならない』
これはつまりイチローという概念に対して私たちの意識が呼応しているのであり、イチローの言葉を自分なりに解釈し、人生にフィットさせていくという行為に他ならない。
遠藤周作の作品に『沈黙』という神による救済はあるのか、神の存在意義とは何かを描いたものがある。
結果として神は沈黙を貫く存在として描かれているのだが、解釈の幅をつくり、その人の心のありようを写し出すのが神という存在なのかもしれない。
冒頭の問いに戻ると、イチローはもはや神の領域に足を踏み入れつつある存在である。
それに対して大谷はまだ『すごい選手』という存在にすぎない。
二人の間に優劣はなく、どちらもそれぞれにすごさはある。
しかし単に成績の優劣ではなく、存在自体が概念化することで多くの人に影響を与えているという意味では、イチローという存在は世界でも有数の神に近い人なのだと思う。
人は、概念化することによって神になる。
そんなことを考えさせられた哲学的問いを投げかけてくれた友人に感謝した1日だった。
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