「似ている」という言葉の寂しさ
「切なさと 寂しさの違い 問う君に 口づけをせり これは切なさ」
切なさの象徴が口づけならば、寂しさを表すシチュエーションは何だろうか。
私は、街中で似た人を見かけてハッと振り返る瞬間がもっとも「寂しい」瞬間なのではないかと思う。
似ている。でも、その視線の先にあるのは求めているものではない。
自分の欲しいものが明確にあるとき、それに近いものと出会う方が、よっぽど残酷なのではないだろうか。
振り返った先にいてほしいものは、自分の中ではっきりと決まっているのだから。
いっそのこと思い出すような引き金に一生会わない方が、幸せなのかもしれない。
本当にほしいものには『代わり』なんて、ない。
小説「ナラタージュ」の中に、こんなセリフがでてくる。
「小野君とどんなに長い時間を過ごしたり何度も寝たって、同じものが得られるわけじゃないのよ」
大切なものを失ったとき、私たちは『あの頃よもう一度』と願ってしまいがちだ。
でも、幸福に『もう一度』なんてない。
そのときの幸せはその瞬間だけのもので、あの頃の亡霊をどれだけ追いかけたって、それはいつまでも手に入らないものなのだ。
わかっていても、それでも、ふと街でハッと振り返る瞬間には淡い期待を感じている。
その甘美な気持ちが裏切られた瞬間に人は『寂しい』と感じるのかもしれない。
わかることと、それができることはまったく別の話で、わかっていても私たちは振り返ることをやめられない。
いつか雑踏の中で本当にほしかったものに再会する日がくるかもしれないのだから。
映画『シュガー&スパイス』の中で、グランマが言っていたこのセリフが、私はとても好きだ。
「1日1回『寂しい』って思うのは、人を愛するコツなのさ。」
大人になるほど、人生で手放してきたものとの思い出が増えるほど、寂しさは増幅していく。
そしてそれは、世界を愛することと表裏一体でもある。
慌ただしく駆け抜けていく人混みの中で、ふと立ち止まる瞬間があること。
それこそが『愛ある人生』に必要なものなのかもしれない、と思った土曜日の昼下がりだった。
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