かけがえのないものを、増やしていくこと。
私は「知性ある消費を作る」をミッションに掲げている。
サスティナブルでもなくエシカルでもなく、「知性ある」という言い方にしているのは、たとえサスティナブルでないものでも、その人にとって価値のあるものであれば認めていきたいと思っているからだ。
たとえば、ここ最近で急激に増えたベビーシャワーやハーフバースデーといった子供関連のイベントは、使い捨てのバルーンやカラフルな紙皿をたくさん使う。
でもその一瞬はかけがえのない時間であり、記憶はきっとずっと残り続ける。
自分の中に長く価値として残り続けるものをいかに選べるか。
それこそが、私が目指したい世界観だ。
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「人はなぜ生きるのか」。
古来から、あらゆる賢人たちがこの問いに挑んできた。
浅学の私には、その意味はまだ見えていない。
でも、生きてよかったと感じるには、かけがえのないものを増やしていく営みが必要だと思っている。
家族や友人たちのような、かけがえのない人たち。
たくさんの思い出を積み重ねてきた、かけがえのない場所。
いつも自分の人生に寄り添ってきてくれた、かけがえのないモノ。
そしてそれらはすべて、「思い出」という無形の価値を作っている。
長く使うこと、歴史を積み重ねていくことは重要だ。
でもそこに記憶や想いが積み重なっていかなければ意味がない。
しかも自分だけのストーリーが積み重なっていかなければ。
逆にいえば、他の人にとってはとるに足らないものでも、自分にとって大切なものを大切にできること。
それを「知性ある消費」と呼びたいと私は思っている。
現代は、簡単にいいモノの情報が手に入る時代だ。
その結果として、お洒落な人の家や素敵なカフェのインテリアがほぼ同じブランドで統一されていたり、みんなが同じような格好としていたりと画一化していっている側面もある。
自分は今、選んでいるのか選ばされているのか。
ときどき、それがわからなくなってくる。
私たちの好みは多かれ少なかれメディアや友人などの環境から影響を受けてはいるけれど、よさそうだからと何も考えずに欲するのではなく、一度立ち止まって自分の審美眼に照らし合わせること。
その一手間が、どんどん失われているように思う。
でももし思考という手間を省いてしまったら、私たちは単に右から左へと情報やモノを流すだけの媒介にしかすぎなくなってしまうのではないだろうか。
かけがえのないものに出会うのは、かけがえのない人に出会うのと同じくらい難しいことだ。
生活のすべてをそうしたもので埋めるのは難しい。
でも年を重ねるごとに自分が応援したい人やブランドに出会い、生活をともにしたいモノたちに出会い、かけがえのないものを周りに増やしていくことが、ゆくゆく私たちの生きる力につながるのだと私は思う。
エシカルだから、流行だから、あの人がおすすめしていたから、と無思考的に何かを選ぶだけでは、自分の人生を肯定することは難しい。
買うことでできるのは他者の肯定だけであり、自分を肯定するには主体的に選んだという感覚が不可欠だからだ。
たとえもっと高価なものが買えたとしても、あえてこれを選び続けると思えるものを自分は選んでいるだろうか。
知性を持ってものを選ぶということは、自分を肯定しながら生きることなのだと私は思っている。
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