美的感性という資産
はじめて金沢に行ったのは、大学卒業直前の春先だったように記憶している。
もう雪こそ降っていなかったものの、宿で布団に入ったときのしんとした寒さは昨日のことのように思い起こされる。
凛としていて、柔らか。
洗練されていて、華やか。
それが金沢の第一印象だった。
上京して10年余、九州以外の土地で『ここなら住めそう』と思ったのは、今のところ金沢だけだ。
好きなまちはたくさんある。でも生まれ育ったまち以外に長く暮らすイメージは、東京にすらも持てない──。
そんな私が縁もゆかりもない金沢になぜ惹かれたのか、その理由は自分でもわからない。
本屋さんがたくさんあることも、ごはんがおいしいことも、文化的な施設が充実していることも、どれも素敵な部分ではある。
ただ『居心地のよさ』というものは、きっと言葉にできない要素で構成されているのだと思う。
そんなに惹かれた街だったにも関わらず、なかなか北陸に行くような用事はなく、日々の忙しさに流されているうちに以前訪れてから10年近くが経っていた。
久しぶりに歩いた金沢の街は、相変わらずため息がでるほど美しい佇まいだった。
金沢の街を歩いていて一番感じるのは、『収まるべきものがちゃんとそこに収まっている』という心地よさだ。
最近できたお店すらもまるでずうっと昔からそこにあったかのように、のびのびとその場所に収まっている。
それぞれが主張しすぎず、かといって地味になるでもなく、過不足ない街並みが人を安心させるんじゃないか、と私は思う。
そういえば最近どこかで似たような感覚を持ったな、と記憶を辿ってみたら、9月に行ったサンクトペテルブルクにも同じ心地よさを感じたのだった。
資本主義社会に生きている限り、都市になればなるほど街中で『あれを買って』『これが便利だよ』という強い主張が否応なしに入ってくる。
街いく人は常に上を目指してカリカリしており、季節を感じる暇もないほどの早足で通り過ぎていく。
これは東京も例外ではないけれど、便利なまちに生きることはそうやって追い立てられる『疲れ』とセットなのだろうと思う。
商業が発達したまちは、どうしても『他の人より一歩先に』という気合がいたるところから滲み出ているような気がする。
しばらく実家に帰ったりしていると、逆にそんなパワーが無性になつかしくなったりもするのだけど。
金沢とサンクトペテルブルクの共通点は、そこに住む人たちが我先にと焦っていないこと、そして自分たちが心地よく美しく暮らすことに重きを置いているところにあるのかもしれない。
しかもその価値観は一朝一夕で生まれたものではなく、何百年もかけてその土地で育まれた美的感覚の結果なのだと思う。
そういえば、金沢は建築家が多いのだそうだ。
たしかに街中にあるお店は小さなブティックもどこか洗練されていて、独特の空気感を放っている。
きっとそうした街並みを見て育った人たちがまた美しい空間を作り、次世代に受け継がれていく。
美しい空間を作ることは、今を生きる私たちだけではなく未来を担う子供たちにも影響を与える投資のひとつだ。
ちょうど今年のはじめに、こんな記事を書いた。
このnoteの中で私は、ビル・ストリックランドの「良いものに囲まれると、人に対する調子や態度もそれにふさわしいものへと変わっていく」という言葉を紹介した。
そして動画の最後に彼が語った「みなさんに知っていただきたいのは、世の中は生きていく価値のある場所だってことです」という言葉も。
今よりよい生活をするために、夢を叶えるために自分の身の回りは効率的に、合理的にしておくこと。
それは一見いいことのように見えるけれど、ふと立ち止まった時に生きる意味を与えてくれるのは、美しくあろうとする意志なんじゃないか、と私は思う。
だからこそ美しい空間を残し続けていくこと、そして美的感性を育みそこに生きる価値を見出し続けることこそが、成熟時代を生きる私たちに必要なのではないかと思うのだ。
(Photo: yansu KIM)
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