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センスを育むために必要なもの

『 "読む"ができる人は必ず "書く"もできる』

これは私の中で確信していることのひとつです。

そしてこの考え方の根底にあるのは、センスはインプットとアウトプットの総量によって育まれるということ。

たくさん読んできた人は、自分の中に独特のリズムと美意識を形成しているので、いきなり書かせてもリズム感のある文章を作ることができます。

そして漢字とひらがなのバランスや語尾のバリエーションなど、何も言われなくても体感で文章の美醜を判断できるもの。

だからこそ私は、ものを書く人には必ず『何をどれだけ読んできたか』を聞きます。

内部留保がたくさんある人は、少しくらいアウトプットが増えても簡単に枯れたりしないから。

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文章だけではなく、ファッションセンスも音楽センスも何もかも、すべてはインプット量に比例するものだと私は常々思ってきました。

洋服を買う場所なんてない片田舎で育った私が、生まれも育ちも渋谷で親子三代外商付き、という人にファッションセンスで勝つのは難しいし、スポーツでも音楽でも二世が生まれやすいのは昔からその分野に接する時間が長かったからという点が大きいでしょう。

暗黙知である "センス"で戦うなら、小さい頃から振り返ってずっと触れてきた分野こそが有利である。

ずっとそう考えてきたのですが、先週の佐々木ゼミで『文章の品格とは何か』の議論を見ながら、センスの育成のためにはもうひとつ大切なことがあると気づきました。

それは揺るがない『信念』という軸。
『美意識』とも言い換えられるかもしれません。

ただバラバラと情報を集め、浴びるだけではなく、それらを自分の判断軸によって振り分けること。

それなくして、本当の意味でセンスは磨かれないのではないかと思うのです。

世の中に溢れるものはすべて玉石混合で、さらに人によってはいいものでも自分の美意識に照らし合わせればそこまでいいと言えない曖昧なもので溢れています。

ただ無限に情報を求めて浴びるように消費するのではなく、ひとつひとつに自らの審美眼をもって評価をすること。

どこに真・美・善を感じ、何が自分の感性を刺激したのかを言語化し、把握する過程こそが、自らのセンスを育てるのではないかと思います。

つまり批評は作り手のためではなく、ある意味自分のためでもある。

だからこそ信念なき批判は誰のためにもならないのだと、改めて感じたここ最近でした。

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