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旅する国の選択権

日本のパスポートは世界最強と言われている。観光目的ならばほとんどの国でビザなしで入国できるし、入国審査で足止めされた経験がある人も少ないだろう。日本国籍のパスポートをもつ私たちは、世界でもっとも旅行の自由度が高い国と言っても過言ではない。

もちろんパスポートがあれば自由に旅ができるわけではない。お金も時間も必要だし、家族や仕事の兼ね合いで旅行の自由がない人もいる。私も日本のパスポートの恩恵を受けられるようになったのは、時間とお金に余裕ができたここ最近のことだ。20代はずっとどちらも慢性的に不足していて、パスポートのありがたみを感じる機会はあまりなかった。

はじめてありがたみに気づいたのは、ロシアへ旅行したときのことだった。ロシアは数少ない「日本人も観光ビザが必要な国」である。そのときはじめてビザの取得を経験し、多くの観光客はこんな面倒なプロセスを経て日本に来ていたのか、と衝撃を受けた。ビザなしでも入国できる対象者の範囲は徐々に広がってきたとはいえ、「海外に行くならビザの取得が必要」の方が世界的にはスタンダードなのだ、と知って驚いたことを覚えている。

もうひとつ印象的なエピソードがある。小学生の頃に初めて渡米した際、引率してくれたALTの先生が中東出身だったために入管で別室に連れて行かれ、数時間拘束されてしまったのだ。国籍自体が中東のどこかの国だったのか、国籍はアメリカでも名前と容姿が明らかに中東系だから逆に怪しまれたのか記憶が定かではないが、「私たちは大丈夫だったのになんでなんだろう」と不思議に思ったことを強く覚えている。911の翌年かそのくらいの時期だったので中東系の入国審査が厳しくなっていたのはたしかだ。それは日本人の引率の先生も把握していたようだが、入管の厳しさが想像以上でまさか数時間単位の足止めをくらうことは想定しておらず、ただ待つしかなかった。大人たちの間では最悪のケース、つまりALTの先生が強制送還される可能性も視野に入れて話し合いが行われているようだった。けれど私たちはその輪に入れるわけもなく、預入荷物の受け取りレーンあたりでキャリーバッグに腰掛けてぼんやり時間を過ごしていた。私たちと先生はなんら疑うことなく「同じグループ」として全員一緒にここまできたのに、パスポートの種類が違うだけで待遇が変わる。私たちは同じようで違うのだ、と幼心に感じた瞬間だった。

当時は気が遠くなるくらい待たされたような気がしていたが、実際は1、2時間くらいだったのだと思う。無事に入国できた先生の姿を見てみんなではしゃいだ。子供の無邪気さゆえに「なんで先生だけ連れて行かれたの?」と拙い英語と日本語を交えながら聞いた記憶があるが、覚えているのは困ったように笑う先生の表情だけだ。日本語が流暢ではなかった先生にとって私たちにもわかるような言葉がでてこなかったのか、話したくない何かがあったのか、今はもうわからない。ただ「入管では止められることもある」と学び、私も止められたときはどうやって英語で説明したらいいのかな、と不安になりながらシミュレーションしたりしていた。

その後私は十数回海外渡航したが、今のところ一度も止められた経験はない。何の障害もなくスムーズに入国審査をパスするたび、許可のスタンプが押された小さなパスポートにずっしりと国籍の重みを感じる。この許可の大部分は「私」ではなく「日本」という国籍への信頼に基づくものなのだと感じさせられる瞬間である。

偶然日本に生まれたというだけで自動的に付与された強大な移動の権利。どんなに願っても手に入れられない人の方が多い特権的な立場であるからこそ、なるべく有効活用して還元していかねばとパスポートを手にするたびに思う。向こうからこちらに来るハードルが高い分、こちらから出かけていき自分の目で見て学び、会話を通してお互いを知る。私が海外に行ったところで何かが変わるわけではないけれど、動きやすい立場の人が動いていくことが、あのとき先生に悲しい表情をさせた「何か」をなくすことにつながるのではないかと思っている。

ただ、これまで私が訪れた国はいわゆる先進国が中心で、よくバックパッカーが行くような国やエリアに足を運んだことがない。小売を専門にしている職業柄どうしても仕事絡みで行くエリアが先進国に偏りがちな面もある。しかし一番の理由は自分の身の安全が確保できる国は限られているからである。「日本人の」「女性が」「一人で」訪れることができる国は、思いのほか制限されている。

もちろん女性バックパッカーもたくさんいるし、彼女たちは危険とされる国でも培ってきた知識と経験で危険を回避したりそのときだけ旅仲間を募ったりしてうまく対処している。けれど残念ながら「女性」というだけで危険性は上がる。見た目にもひ弱そうなアジア人ならなおさらだ。

YouTubeで海外の危険な国やエリアに潜入する動画を見るたび、私が生きているうちにここを訪れることはないだろうな、とため息をつく。性別は関係ないと思いたいけれど、実際その種のYouTuberはほとんどが男性だし、旅慣れた人でも危険な目にあったりしている。危険地帯に行きたいわけではないけれど、どこにでも行けるパスポートを持っているはずなのに別の理由で行けないことへのフラストレーションがある。行く権利はあっても、環境がそれを許してくれないケースもあるのだと。「行きたい」と思ったときに一人ですぐに行ける場所は、実はそう多くない。

インターネットが世界中をつなぎ、飛行機で世界の裏側にだって数十時間で行ける世界に私たちは生きている。けれど、実際に行ける国はさまざまな理由で制限されていて、「誰もがどこにでも行ける」状態に到達するにはかなりの時間がかかるだろう。

冒頭にも書いた通りお金や時間をはじめとするプライベートな理由で旅行や移動が制限されることもある。でも本人が努力したり工夫したりすれば好きな場所に行ける権利と、現地で安全に過ごせる環境が手に入る世界を目指したいと私は思う。どんなに映像技術やVRが発展しても、現地の日差しや空気が含む水分、肌の上をすべり吹き抜けていく風の感触を感じるには現地に行くしかないからだ。

「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」

パスポートに書いてあるこの一文が好きで、たまにわざわざ棚の奥から引っ張り出してきて読むこともある。私たちはこの後ろ盾によって保証された権利を行使することで、無事に海外へ渡り滞在することができている。

この言葉が「日本国民」だけではなく世界中の誰しもが享受すべき権利だと思う。そして女性だから、特定人種だからという理由で身の危険を感じなくてすむ世界を広げていきたいと思う。旅する国の選択権が無意識のうちに制限されていることに、疑問を持ち続けていきたいと思う。

私のパスポートは、すでに3冊目に突入した。はじめて10年用の赤いパスポートを取得してから海外に一度も行かなかったのは2020年がはじめてだったような気がする。普段の生活で意識することはないけれど、世界にはたしかに「国境」という線が引かれていて、ちょっとしたきっかけでその線を超えることが難しくなる。行きたいときに行きたい場所に行ける自由は、いくつもの幸運の重なり合いによって支えられていたのだと改めて実感する。

選択の自由は、ふとしたことで手からこぼれ落ちてしまうほど脆く崩れやすいものだ。当たり前のように享受してきた権利の重みは、失ってからしか気づけない。パスポートに押された最後のスタンプの上に指をすべらせながら、そんなことを考えていた。

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