「知性ある消費」とは何か
「知性ある消費を作る」をミッションに掲げてから三年以上が経過した。その間、理想とする消費のあり方について表現を変えながら説明をしてきたものの、もっとしっくりくる言い回しがあるのではないかと常に頭の片隅で考えを巡らせていた。
たとえば私はエシカルやエコを安易に持ち上げるのは知性ある態度だとは思っていないし、消費行動が流行に左右されるのは当然だと考えている。もちろんモノを大切に使い必要なものを必要な分だけ買うことは大切だが、理性では割り切れないパッションを起こすからこそモノづくりは尊いのだと思うからだ。
何もかも取っ払って「かわいい!ほしい!」という衝動もまたその人らしさの発露であり、自分の感性や直感を信頼することもまた知性につながる要素であると考えている。
では私が考える理想の「知性ある消費」とは何か。
この四年弱考え続けて気づいたのは、他者からの評価よりも自分にとって評価が高いものを所有することなのではないか、ということだ。
一般的な評価が高いものは、ブランド品であれ美術品であれ、お金という記号によって交換ができる。しかし思い出や伝統、人との関わりといったお金に換算できない価値は他者からは評価ができないので交換が難しい。
この代替不可能性に、私は強く惹かれる。
他者にとっては何の意味も価値もないものが、自分にだけは宝物に見える。
その差分を作り出せることこそが知性なのだと、私は思う。
購入したときには高価だったとしても、大半のものは経年劣化によって価値が落ちる。しかし所有者にとってはともに過ごした年月が刻み込まれた分だけ思い入れが深まり、むしろ価値は上がっていく。
他者からの評価がどうであれ、自分にとっての価値が上がる使い方に知性が現れるのだと思う。
しかし作り手にとっても売り手にとっても、自分たちがつくったものや店舗での体験が受け手にとってどれだけ代替不可能な価値を作り出したのかを測ることはできない。結局は売上や来店客数、リピート率といった目に見える指標に頼らざるをえない。購入者や来店客に価値を提供できたと信じることしかできない。
測定できないからこそ価値がある。しかし測定できなければ正しい現状把握ができず、改善につなげることもできない。
私が「知性ある消費」をミッションに掲げているのは、この矛盾に強く惹かれるからなのだと思う。
モノも思い出も、天国まで持っていくことはできない。
けれど去り際に自分の人生を満たしてきたものを豊かに思い出せる生き方がいい、と私は思う。
「知性ある消費」は、その人が暮らし生きた証を作る営みであると今の私は捉えている。
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