「理想的な社会」に、完成形などない
世界中が感染拡大に揺れる今、それぞれの国の対応や政治のあり方を比べて批判する言説も増えてきた。
早急な決断、強いリーダーシップ、手厚い補償。
未曾有の危機に私たちが政治に求めるものは多く、それが叶えられないと強い不満となる。
しかし法律や体制は、国によって大きく異なる。
国家体制や文化が異なることによって対応が変わり、感染拡大スピードや経済への打撃が国によって異なっていることは、まさに多様性の恩恵と言えるだろう。
私たちが他の国と異なる仕組みを持ち、異なる結果を出していることには意味がある。
もちろん別の脅威が襲ってきたら、また異なる結果になるだろう。
ひとつの理想的な社会の仕組みがあるのではなく、それぞれの国が異なるシステムを持ち、異なる対応をしていること。
マクロでみれば、その多様性こそが人類が生き残るための手段であるとも言える。
現在特に「リーダーシップ」が取り沙汰されているけれど、今のこの状況は誰か1人の能力の問題ではなく、そもそもの仕組みに由来している点もあるはずだ。
私は政治や社会体制の専門家ではないが、すぐに何かを決めることが難しいのは私たちが民主主義社会に生きている証拠だと感じている。
特に今の日本の状況は、感染拡大防止と経済停滞抑制のバランスをとるためにそれぞれの利害が複雑に絡み合い、それを「調整」することが求められている。
何かを選ぶということはそれ以外の誰かを切り捨てなければならないということである。
実際に欧州では救済する業界を選ぶ「エコノミック・トリアージ」がはじまっているようだ。
みんなが助かるためには、誰かが犠牲にならなければならない。
強権発動とは、誰を犠牲にするかを決めるということでもある。
民主主義においてはなるべくその「犠牲になる人」を減らすために、利害をすり合わせて最適な方法を模索するというプロセスをとる。
つまり私たちが独裁体制ではない民主主義社会に生きているかぎり、お互いの利害を調整するという面倒なプロセスを経る必要がある。
現実の世界は、魔法の杖を一振りすれば解決するようなものではない。
ここ最近、「大衆の反逆」や「全体主義の起源」、「支配の構造」、「一九八四」と、理想の社会とは何かについて考えさせられる本を多く読んできた。
その中で一番感じたのは、理想の社会とは完成しない状態を言うのだということ。
ある特定の思想だけをもとに社会を動かそうとすると、思想にも行動にも多様性がなくなる。
結果として大衆の狂気がタコツボ化して加速し、小さな違いによって憎み合うようになってしまう。
何も不安がなく、衝突もなく、努力せずとも生きていける状態。
それは実はユートピアの顔をしたディストピアなのだということは、ジョージ・オーウェルの「一九八四」を読めば感覚的にも理解できるはずだ。
私の大好きなsoarに、べてるの家の「今日も順調に問題だらけ」という理念を紹介した記事がある。
理想的な社会とは、異なる人同士がお互いの利害をすり合わせるために面倒なプロセスを経ることであって、そこから生じる問題があることを「順調」と呼ぶのではないか、とべてるの家を思い出しながらふと気づいた。
問題がない状態の方が、よっぽど問題なのだ。
それはきっと誰かが自分の欲求や気持ちを、抑え込んでいるということだから。
もちろんリーダーの決断や言動に対して批判的な目をもちつづけることは必要だ。
自分の立場から「もっとこうすべきだと思う」と発言することもまた、自由な民主主義社会に生きる私たちの権利なのだから。
ただ、すべてが綺麗に解決して全員が満足できる仕組みなんてないこともまた、理解しておくべきだと私は思う。
今、私たちは状況が刻一刻と変わり、正解の道筋がわからない不安な日々を過ごしている。
なかなか思い通りに進まない国の対応に不満を感じることもあるけれど、無思考的に他国の施策を取り入れればいいわけではないこと、国の仕組みよってできることとできないことがあることを理解しつつ、冷静な目で状況を見ていきたい。
ストレス発散のための罵詈雑言ではなく、次につなげていくための建設的議論こそが、本当に理想的な社会を作るのだと信じて。
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