見出し画像

「知ること」の不可逆性

不整脈で病院にかかったとき、「息を吐いたあとに少し呼吸が止まる瞬間がありますね」と言われた。そのときはじめて自分の呼吸は「ふつう」ではないのだとを知った。

それからしばらくは、ふとしたときに「ふつうの呼吸」をしようと意識したら息の仕方がわからなくなってしまい、こんがらがって過呼吸になったりしていた。無意識にできていたことも、その動きを意識し始めると調和がとれなくなり、乱れて崩壊する。スポーツ選手の「イップス」ってこんな感じなんだろうな、と呼吸を整えながら思う。スランプとはまた違う概念のものなのだ、と。

意識や認識は不可逆的なものである。一度意識してしまったら、一時的に忘れたり抑えることはできても「無意識」には戻れない。
気づいてしまったことはもう誤魔化せないし、ぶつかった問いはなかったことにはできない。学ぶとは、成長するとは、老いていくということは、意識してしまったことによる苦しみや生きづらさをうまく忘れたり誤魔化したりしながらなんとか生きながらえていくことなのだろう。

子供の頃、「わかった」はすべて楽しい体験だった。成長してからは、他の人より「わかる」ことが力だと思っていた。知識も情緒も、得たものは余すことなく自分の力になるのだと。地平線はどこまでも続いていて、遠く変わった場所に行けば行くほど豊かになれるのだと。

そう疑いもせず突き進んでいたら、ある日崖に直面して「わかってしまう」こともあるのだと知る。先人たちの問いの本質や絶望の意味を一度認識してしまえば、それらはもうなかったことにはしようもない。なるべく崖に近づかないように、視界に入れないようにしながら、別の方角を目指すしかない。

崖の存在を知らなかったときの私はどう生きていたのだったか。何かがわかるようになると、これまで当たり前にできていたことがわからなくなる。得る分だけ失うようにできている。

寝入りばなに、ふと「寝ている間も私の呼吸は一瞬止まっているのだろうか」と疑念が頭をよぎる。寝ているうちに呼吸が止まる時間が長くなったりしないだろうか、と不安になりつつも、徐々にその不安ごと睡魔に絡め取られてゆく。

翌朝目を覚ました私にわかるのは、今日もまた「ふつうでない」呼吸のまま一日を過ごし、眠りに入る事実のみである。自分の呼吸音に耳を澄ませ、布団の中で自分の体の輪郭を確かめながら、もう一度まどろみに落ちていく。

サポートからコメントをいただくのがいちばんの励みです。いつもありがとうございます!