帰りたい場所は、いつだってあの雨の日
そういえば、あの日も雨だった。
「雨、降ってきよったなぁ」とつぶやく背中に、どんな言葉を返したかは覚えていない。
あの頃は、いつも背中ばかり見つめていた気がする。
***
窓の外では雨が降り続いている。この部屋からすぐに飛び出して帰りたくなった。けれど、今、自分の帰りたがっている場所はもうどこにもないことも分かっていた。それは私の底で眠っていた記憶の中にだけある場所だった。(「ナラタージュ」より)
雨の音や匂いは、断片的に記憶を呼び覚ます。
そして、小さな不安を掻き立てる。
帰りたい、と思う。あの安心できる場所に。
雨の日になると懐かしい気持ちになるのはきっと、10年前にこの本を読んだことがきっかけだ。
あのとき「これは、私の話だ」と気づいてから、記憶はずっと雨の日に閉じ込められている。
「どうしてだかは分からない、だけどとにかく君には、ほかの相手よりも正確に僕の言葉が伝わっているという実感がある。そういうのは危険なんだ。」
何ひとつ泉と同じ経験をしたわけではない。
いじめられたこともないし、昼休みごとに先生を訪ねていったこともないし、後輩に事故がおきたこともない。
それでもこれは「私」の話だし、もっと言えば誰にでも当てはまる話だろう。
琥珀のように閉じ込められた思い出を、誰でもひとつは持っているものだから。
「小野君とどんなに長い時間を過ごしたり何度も寝たって、同じものが得られるわけじゃないのよ」
泉は、ちゃんと小野くんのことを好きだったと思う。
でも、「心ここにあらず」が人を傷つけるということも、今ならわかる。
わかる。でも、どうしようもない。
登場人物全員がこの「身動きのとれなさ」に苛まれていて、まるで本物の人生のようだ、と思う。
人生にハッピーエンドなんてない。
前にも後ろにも進めずに、同じところをぐるぐるするばかりだ。
約束はできないと私は言った。
「だけどきっと私はそうすると思います。今日のこともいつか思い出さなくなる、そしてまた、ほかの誰かをこの人しかいないと信じて好きになる。あなたに対してそう思ったように」
「救ってもらった」という記憶は、人に甘く切ない感情を植え付ける。
どんなに年を重ねても、いつも記憶がそこにリセットされる。
そして泉が先生を救ったように、私も救ってあげたかった、と思う。
きっとその後悔が、今の原動力になっている。
あのときの私にはまだ、救う力も受け止める力もなかった。
「これ、好きやろ」と、真っ白のお皿においしいものを並べてもらうばかりだった。
今なら泣くたびに甘いもので慰められなくても、ちゃんと自分の力で立ち直れるのに。
大人になってから人のためにどれだけ働いても、救えなかった後悔はずっとそのまま、私の中に残っている。
今でも呼吸するように思い出す。季節が変わるたび、一緒に歩いた風景や空気を、すれ違う男性に似た面影を探している。それは未練とは少し違う、むしろ穏やかに彼を遠ざけているための作業だ。(中略)
だけど実際は二人がまた顔を合わせることはおそらく一生ないだろう。私と彼の人生は完全に分かれ、ふたたび交差する可能性はおそらくゼロに近い。
映画のラストよりも、小説のラストの方が好きだ。
映画では「恋ではなかった」と言わせていたけれど、原作のラストを読むかぎり、そんなことはなかったはずだから。
一緒に、時を止めてしまった瞬間がある。
誰でもそうやって立ち返る思い出を持っていて、時折取り出して眺めている。まるで古い懐中時計を眺めるように。
それがもう、動きだしたりしないこともわかっている。
自分も周りも刻々と変化していて、でも、だからこそ、時々タイムカプセルのように取り出して眺めたくなるのだ。
大人になるということはきっと、そんな一瞬一瞬を抱えて生きていくということなのだろう。
雨が降ると思い出す、あの一瞬の思い出を抱えて。
これからもずっと同じ痛みを繰り返し、その苦しさと引き換えに帰ることができるのだろう。あの薄暗かった雨の廊下に。そして私はふたたび彼に出会うのだ。何度でも。
周囲の人々が不安げに見守る中、途方もない幸福感にも似た熱い衝動に揺さぶられながら、私は落ちる涙を拭うこともできずに空中を見つめていた。
(photo by tomoko morishige)
※文中の引用はすべて小説版のナラタージュより
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