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「道」の精神はすべてに宿る

日本には、「道」という言葉がつく単語が複数ある。
花道や茶道からはじまり、武道と呼ばれる剣道、柔道、合気道。

さらには造語として「◯◯道」という言葉が使われることもある。

「道」は、私たちにとって馴染みぶかい言葉である。

「士農工商それぞれに、それぞれの道がある」

そう説いたのは剣豪・宮本武蔵だ。

武士道のみならず、あらゆる職業にそれぞれの道がある。
それは言い換えれば、どんな人にもそれぞれの役割があるとプライドを持って事にあたれという意味なのではないかと思う。

仕事とは、ただ食い扶持を稼ぐためだけのものではない。
自分の全存在をかけた、自分という人間を表現するための手段である。

剣道の世界では「剣道とは剣の理法の修練による人間形成の道である」という言葉がある。

試合でガッツポーズをしていけないというルールは有名だが、武道の世界において相手は自分を映す鏡であり、自己の修練こそが重要だとされている。

だからこそ試合における勝ち負けは些末なことであり、過去の自分ができなかったことをできるようになったか、ギリギリのところで相手に気持ちで負けなかったか、集中して相手を見ることができていたか、といったことの方に重きが置かれるのだ。

これこそが、「剣術」ではなく「剣道」と呼ばれる理由である。
私はそう教えられてきた。

修行とは、何かに勝つためにやるのではなく自分と正しく向き合うもの。
鍛錬の道に終わりはない。

こうした意識は武道や伝統産業にだけ息づいた思想ではなく、今を生きる私たちにも連綿と受け継がれているような気がする。

たとえば掃除ひとつをとっても、私たちはそこに意味を見出す。

子供たちが自分で校内の掃除を行うことに外国人は驚くというけれど、日本人にとって掃除は単に身の回りを美しく保つ以上の精神的な意味を帯びたものなのだと思う。

仏教や和食の修行でひたすらに掃除をさせられるのも、掃除に人間としての鍛錬の価値があるからなのかもしれない。

アメリカにおけるこんまりブームは、私たちが普段無意識に行ってきた人間形成としての掃除を、禅の精神と絡めて提案したことによる新鮮さが大きかったのではないだろうか。

それ以外にも、「道」はあらゆるところに宿っている。

私たちが自分と向きあい、鍛錬し続けようという意思を持ち、努力し続けていれば、それは立派な「道」である。

即物的な役に立つ/立たないの次元を超えて、自分を映す鏡として向き合い続けるもの。
名声よりも、自分の納得いくものを作ろうとする心。

それこそが、私たちが受け継いできた「道」という感覚なのではないかと思う。

自分は今、どんな道を歩いているのか。
日々の忙しさに流されてしまいがちな現代だからこそ、自分の歩む道に自覚的でありたいと思うのだ。

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