思考の枠が、外れる瞬間について。
ここ2週間ほど東京を離れてみて、その土地の人たちから話を聞く中で何度も『思考の枠が外れる体験』をした。
より平坦な言葉で言えば『価値観が変わる』ということなのだろうけど、私は単にAからBに変わるというよりも、自分の思考を形成している枠のようなものがガコッと外れて拡張されたような感覚を持っている。
だからこそ、『思考の枠が外れる』という表現を好んでよく使う。
私は世界を理解し、意味を咀嚼して自分の言葉で語れるようになる瞬間がなにより好きだ。
それは「わかった!」というひらめきのときもあるし、はっきり白黒つけられなくてもやもやしたままのときもある。
どちらにせよ、自分の頭で理解したことに言葉という枠を与え、綺麗に畳んで収納しておくというプロセスが何よりも楽しいと思っている。
そして時々、一度しまった言葉がアップデートされることがある。
それを私は『思考の枠が外れる』と言っている。
つまり、私にとって言葉という枠が思考の枠そのものであり、体験したことによってある言葉の意味が拡張したり、重みが増したりすることで、思考の枠も変化していく。
ちなみに私は、『AよりもBがいい』といった比較による思考の変化はあまり好きではなくて、どちらかというと『AだけではなくBもあった』という発見の方が好きだ。
例えば、どれだけ素敵な土地に行ったからといって「東京より地方がいい」と考えるのは好みの変化である。
ではなくて、『東京以外にもこういう暮らし方がある』という風に認識を拡張していくことで、人生はより自由に、豊かになっていくと思うのだ。
もしかすると、私が思考の枠が外れる瞬間にこだわるのは、視野や選択肢が広がることで『こうでなければならない』という抑圧から逃れるためなのかもしれない。
何かを賞賛するためにもう一方を否定するのではなく、その両端をつなぐ緩衝地帯を開拓する。
それこそが私にとってはぴったりの感覚なのだろうと思う。
いくつになっても、目がさめるような『思考の枠が外れる瞬間』に出会い続けていたい。
人生に『絶対』はないのだから。
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