遠く、深く。私はひたすらに「考え」たい。
2010年代の終焉と共に、私の20代も終わりを迎えた。
振り返ってみれば、考え方もものの見方も大きく変化した10年だった。
特に20代最後の1年は、次の10年に向けての助走期間として地盤を固め、向かう先が自然と定まっていた時期だったように思う。
その変化のひとつは、英語を本格的にまなびはじめたこと。
まだ『話せる』というにはほど遠いレベルではあるけれど、一次情報として英語を読み、英語で聞き、たどたどしくも自分の考えを英語で伝えられるようになったことは、私の視野を大きく広げた。
自分でも意外だったのは、外を知ることでより内に関心が向くようになったことだ。
英語をまなびはじめたとき、私のモチベーションは『海外の最新情報を知りたい』だった。
日本語で得られる情報には限界があり、最先端の情報はほとんど英語で発信されている。
だからこそ英語でインプットする力をつけることが、自分のキャリアにも役に立つと思っていた。
しかしある程度インプットできるようになって気づいたのは、『日本の方が先端をいっている部分もあるのではないか?』ということだった。
コンビニ各社やイオン、ユニクロ、MUJIなど海外で成功をおさめている企業はたくさんあるし、海外の新たな取り組みも『それってすでに日本がやっていることなのでは?』と思うことも多々ある。
とはいえ無闇に日本がすごいと言いたいわけではない。
持ち上げるわけでもなく、下げるわけでもなく、フラットに見る。
そのためには一次情報として自分の目で原文にあたり、直接話を聞き、足を運ぶ必要がある。
語学はそうやって視野を広げるためのツールなのだ、と改めて思ったのだ。
私は、あらゆる問題は彼我を過度に分けることから生まれると思っている。
英語という共通言語を持ち、他国の友人ができたことで、彼らの問題は同時に私の問題にもなり、自分のこれまでの生活の外にあるものごとにも関心を持つようになった。
これは国や人種だけではなく、国内の対立でも同じことが言えると思っている。
公務員や大企業、マスコミ、有名人。
自分と接点がない人を雑にカテゴライズすることで彼我の線を引くとき、私たちは冷酷な動物になってしまう。
遠くを見るためには、あらゆるコミュニティとの共通言語と友人を持つべきなのだと改めて感じた1年だった。
もちろん、『広げる』だけでは表面をなぞってわかった気になってしまうこともある。
だからこそ、私は広げると『深める』を同時にやることを意識してきた。
本の選び方を変えたのも、『広げる』から『深める』へシフトしたいと考えたからだ。
1人の話を聞いただけで、1冊の本を読んだだけで、1本の映画をみただけで、わかった気にならないこと。
時間をかけてゆっくり咀嚼し、自分の頭で考えること。
問題の本質や事象の共通点を見つけ、一度抽象化してから具体に落とし込むこと。
『啓蒙ではなく探求』をモットーとしている私にとって、広く見渡したことで得た知識を深く考えて知恵に変えていくプロセスは、もっとも楽しい時間のひとつだ。
遠くまで見る。そして深く潜る。
この考えるプロセスを繰り返していくことが私らしくあることなのだと、やっと腹落ちして理解できたのがこの1年だったように思う。
次の10年にやりたいこともたくさんあるけれど、私の基本はこのプロセスを回していくことにある、と今は確信を持っている。
世界を変えるために、拳をあげて煽動する必要はない。
まずはそれぞれが思想を持ち、それについて座ってじっくりと語り、すり合わせていくというプロセスこそが本当の意味で世界を変えていくのだと、私は強く信じている。
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