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「文化的な生活」とは何か

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。

日本国憲法二十五条を改めて読むと、「最低限度の生活」の基準に「文化的な」の一言が入っていることの意味を考えさせられる。私たちはただ「生きのびる」ためだけに日々を重ねるのではない。「生きる」ために、文化的な暮らしを自分たちの権利として主張できるのだ。

では「文化的な生活」とは何なのだろうか。

テレビや新聞、インターネットなどのメディア媒体に接続できること。地域の伝統を受け継ぎながら暮らすこと。

「文化的生活」へのイメージは、人それぞれ異なるだろう。

ただどんなイメージを持っていたとしても、その前提には「暮らし方を自己決定できること」があるはずだと私は考えている。

現代日本において暮らし方の自己決定権が奪われる機会はそうそうないと思い込んでしまいがちだが、過疎化や生活インフラの老朽化によって移住を余儀なくされる事例は枚挙にいとまがない。祭りや街並みなどの伝統文化を継承したくとも継承できない状況もまた、「暮らし方の自己決定」が実現できていない状況だ。

伝統文化というと観光資源になるような有名なものばかりが保護の対象となりがちだが、本来は有名・無名に関わらず人が紡いできた暮らしの様式すべてがひとつの財産として、そして権利として守られるべき対象のはずである。諸行無常の世の中とはいえ、その権利をいかに守り個人の幸福を実現する仕組みを作るかこそが、社会の発展の意義であるともいえる。

文化度の高さとは単に歴史が長いとか高尚な伝統が残っている状態を指すのではなく、それぞれ異なる個人の幸福を尊重することにある。

この前提を忘れて「これが文化的な生活である」という押し付けがはじまった瞬間に、悲劇がはじまる。資本主義が文化に干渉したり手段のひとつとして利用したりすることで、これまでもさまざまな不幸が起きてきたように。

12月に読んだ本一覧の中でも紹介したけれど、先月ネイティブ・アメリカンの歴史を紐解いた本と貧困層をコンテンツ化する「ポバティー・サファリ」への批判にまつわる本を読んだ。

この二つの問題には共通点がとても多い。なかでも一番印象的だったのは、どちらも「自己決定の権利を奪われている」ことだった。

時代ごとの政治に翻弄され、開発事業者や地域住民との争いは絶えず、よかれと思って支援してくれる人たちも、当事者視点ではなく彼らにとって「よい」と感じる施策を推し進める。

「労働者階級のコミュニティでは、文化とアイデンティティのシンボルが奪い取られ、名前を変えられ、売り払われ、不可解にも燃え落ちて破壊される──進歩の名のもとに。」

ポバティー・サファリ」に出てくるこの一節には、どきっとさせられる人も多いはずだ。もちろん私もその一人である。

労働者階級のみならず、地方や郊外はもちろん、都心でも同様の問題が起きている。たとえそれが発展のためだったとしても、一般的にみて価値のないものだったとしても、営みの中でうまれ受け継がれてきたものを他人が勝手に破壊することは自治権の侵害である。よそ者として地域や伝統に関わる際には、この意識を強く持っていなければあっというまに「善意の侵略者」になってしまう。

今でこそ帝国主義の権化として語られる植民地制度も、当時の支配者視点から見れば、未開の人たちに文明を与える善行の側面もあったはずだ。この構図は東京から地方へ、ITから非ITへといった「もてるものからもたざるものへ」の関係性全てに共通している。

しかし「文化の押し付け」は文化的行為とはいえない。

こうあってほしいという理想の押し付けも、こうあるべきという価値観の押し付けも、文化を育み継承するための仮面を被りながら、文化を殺す行為に他ならない。

私たちが憲法によって保証されている「文化的生活」とは、全員共通の基準があるわけではなく、むしろそれぞれの基準を尊重する考え方なのではないかと私は思う。習慣や環境を含めた、暮らし方のすべてを自己決定する自治の権利を含むはずなのではないか、と。

本来は人がより暮らしやすく、幸福になるための工夫の蓄積であったはずの「文化」が、人を苦しめるものになってはいけない。受け継ぐことも、手放すことも、新しくはじめることも、すべて当事者が自分の意志で決められること。

それこそが「文化的生活」のスタート地点なのではないかと思うのだ。

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