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対話型ジャーナリズムを目指して

「ジャーナリズム」と聞くと、取材対象者を追求するイメージを持つ人も多いかもしれない。
そのイメージはあながち間違いではなく、報道の役割は本人が話したくないことすらも引き出して真実を伝えることにある。
話したいことを気持ちよく話してもらうだけでは、報道ではなく広報になってしまうからだ。
相手が隠したい、濁したいと思っていることにも切り込み、他の取材で得られた情報をもとに話しづらいことも話さざるをえない状況を作って真実を明らかにするのが報道の役目でもある。

しかし、ともすると追求の姿勢は「正誤」「善悪」の二元論に矮小化され、責任追求が単なる個人攻撃になってしまうこともある。
特にSNSの言論空間では、ジャーナリストとしての矜持とスキルを持った人たち以外も気軽に「追求」ができてしまう。

ジャーナリズムは本来、綿密な調査と信頼関係の構築によって行われるべきものである。
そして批判や追求はあくまで真相解明のためのプロセスであり、目的ではない。

価値ある報道をしているメディアも記者も数多く存在しているけれど、インターネットによって相対的に批判や追求の声が増えてしまったことで、これからのジャーナリズムのあり方も変わっていく必要があるのかもしれない。
最近はよくそんなことを考える。

私自身はいわゆる「ジャーナリスト」になれるほどの素質はない人間なのでジャーナリズムを語る立場にはないけれども、私なりにより真理に近づくためのアプローチをとっていきたいとは常々考えている。

真実を知るためのアプローチは、複数あっていい。
私は従来とは異なるかたちで、世の中の仕組みや異なる立場を理解し、自分なりに考えるための礎にしていきたいと思うのだ。

そのための方法が、対話だと私は考えている。

「対立ではなく対話を」。
私の発信は、この姿勢を常に意識している。

以前、「思考の補助線になりたい」というnoteを書いた。

対話のために必要なのは、感情をなるべく差し引いてお互いの立場を理解するための要素を並べることだ。
その上で、勝ち負けではなく「落とし所」のために議論を重ねてゆくことだと思っている。

批判は、ともすると他者にだけ変化を押し付けることにもなりかねない。
しかし本来は、批判は自分にも向けられるべきものである。

ちょうど最近見ていた100分de名著のガンディーの回でも、「自省」がひとつのキーワードになっていた。
ガンディーといえば非暴力によってインドの独立を成し遂げたことで知られているが、暴力的な摩擦を起こすことなく変革するには、まず自分を省みることが不可欠なのだと教えられた回だった。

前述のnoteでも小林秀雄の言葉をいくつか引用しているが、彼もまた批評における自省の重要性を説いた人物だった。

「批判」はこちらからあちらへと一方通行のイメージだが、「対話」は言葉が行き来する印象を含んでいる。
つまり対話は放った言葉が自分にも返ってくるのであり、相手に向けた批判は自分の行動を省みるきっかけにもなっている。

元来、批判はプロフェッショナルな分野である。
意味のある批判をするには膨大な知識が必要であり、物事を立体的に見て、前後の文脈も理解しなければならない。
特別な訓練を積んでいない人が手を出すと、誹謗中傷に近いものになってしまうこともある。

しかし対話は、ひとりひとりの意識次第で取り入れられる、一般のためのジャーナリズムのあり方なのではないかと私は考えている。
そして私たちが作り上げる対話が、プロの追求だけではたどり着けなかった真実に至るきっかけを作ることもあるのではないか、と。

私たちが住むこの世界は、ひとつのボタンを押せば解決するほど単純にはできていない。
責任者が辞めれば魔法のように解決するわけではないし、あっちを立てればこっちが立たず状態になってしまうことばかりである。

米原万里が著書「真夜中の太陽」で書いている通り、歴史というしがらみによって割り切れないことも多い。

どんな紛争にも紛争当事者同士のあいだには、複雑に絡み合った原因が過去にあり、その過去の原因にもさらにそれぞれ過去の原因があり、その過去の過去の原因にもいくつもの原因がある。要するに、過去のしがらみ。それを、歴史のない国は、スパッと今現在の論理だけで切ってしまえるのだ。

複雑な問題の背景を丁寧にときほぐし、論点を整理しながらすり合わせていく「対話」が、今こそ求められているのではないかと思う。

しかし普段の私たちの生活を振り返ってみても、身近な人たちとですら落ち着いて対話を重ねることは難しい。
家族や恋人など距離が近い人ほど対話ではなく喧嘩になってしまうし、仕事では勝った・負けたの議論ばかりになってしまう。

ことほどさように、当事者同士が感情を排して冷静に対話をすることは難しいものである。

だからこそ、対話を促すために存在するのが「ファシリテーター」なのだろう、と私は思う。
そしてメディアの役割は、読者に変わって批判や監視をすることだけでなく、読者が取材対象者と「対話」できるように論点を整理し多様な視点を提供することでもあるのかもしれない。

この営みを、私は勝手に「対話型ジャーナリズム」と名付けている。

そして対話を実現するための視点や論点を、私なりにまとめて発信していきたいと考えている。

ちなみに私はnoteのコメント欄も閉じているし、Twitterも最近は原則としてリプライできない設定にしてからツイートしている。
これを「対話の拒否」と取る人もいる気がするのだけど、私に対して意見を表明するよりも、より広い世界に意見を発信して欲しいという思いから、あえて私への直接的なコメントの場所を作っていない。
しかしDMは開放しているので、時折私の発信への感想や参考情報を送ってくれる方々もいて、毎回とてもありがたいなと思っている。
なぜかこれまで悪意あるDMをもらったことが一度もないので、リプライとDMの間には何かハードルのようなものがあるのかもしれない。

対話は、お互いへのリスペクトがなければ成り立たない営みだ。
よりよいものを作り、よりよい世界を目指すために、面と向かって論争をしあうだけではない意見交換の方法に、チャレンジし続けていきたいと思っている。


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