作業着に誇りを持つということ。
思い返してみれば、父のスーツ姿を見た記憶がほとんどない。
工場勤めの兼業農家である父は、昔も今も、ほとんどの時間を農作業着か工場の作業着で過ごしている。
私の地元ではむしろそれが当たり前で、スーツを着ている人の方が珍しいような環境で育ったので、たまに東京の街中で作業着を見かけると懐かしくて心がぎゅっとなる。
世の中一般からするともっとかっこいい服はたくさんあるだろうけれど、私にとって作業着はランウェイで披露される最先端のデザインと同じくらいかっこよくて、素敵なものだと思っている。
なぜなら、そこには実用を突き詰めた美学が宿っているからだ。
丈夫で、動きやすくて、汚れにも強い。
見た目の美しさとはまた違う、質実剛健な魅力がそこにはある。
そしてたくさんの汗を吸って、土や機械の油で汚れた作業着は、「作る人」の勲章だと思う。
本人たちはきっと、そんなことは一切意識もしていないのだろうけど。
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昔はシャネルもバーバリーも知らない、毎年同じセーターと作業着で過ごす父を恥ずかしく思っていたけれど、自分の身に付けるものに本当に誇りをもつということは、ブランドやデザイン性だけで語れるものではない、と今になって思う。
その人の生活や思想にぴったりと寄り添うもの、自分自身も自然に感じられて、周りから見ても違和感のないもの。
高級な素材を使っているとか、すごいデザイナーが作ったとか、そういう世界とはまた別の評価軸もあるのだ。
もちろん、デザイナーが魂を削って創りだしたものは美しい。
しかし、自分の誇りある仕事のために酷使される作業着もまた、ある種の美しさを持っている。
それは作業着に限ったことではなくて、母が毎日つけているエプロンや、それぞれの職業にある制服や、私たちが日々選ぶ仕事着にだって同じことが言えるのではないだろうか。
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洋服は、人の体が入ったときにこそもっとも輝くアイテムだ。
そして、「この人に着られるのを待っていたのだ」と感じられる、まるで皮膚の一部になったかのような状態を「似合う」と呼ぶのだと思う。
洋服そのものが美しいことを誇りに思うのではなく、自分にぴったり似合うものを身に付けていることを誇りに感じられること。
私自身、そういう瞬間を増やしていきたいと常日頃から思っている。
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