ひとはなぜ同情するのか

今日、こんなことがあった。
以前既に、電子タバコを買うかと勧められ、断ったひとが、再び、恐る恐る、良かったら、電子タバコどうですか?と勧めてきのだった。
しかし私は、ここで、断った。
その営業マンは、せねばならんし、断られるの嫌だし、電子タバコ売らないとけない。
私は、そのジレンマは、可哀想だなあと、同情したのだった。
同情とは、ひとは、どうでもいい時にするものなのだろうと、私は思う。相手の気持ちを汲んでしているのではない。そもそも、可哀想だなあ、と思う、または、可哀想だと、相手に言うのは、かなり、失礼な気がする。
例えば、このような事例だ。
私は、家で、立って、冷麺を食っていた。
すると、おばちゃんが、「〇〇くん1人で、冷麺立って食って、可哀想」と言ったのだ。
そこで、母さんがすかさず、「〇〇は、いつも、立って飯を食べるのよ。可哀想じゃないわ」と言った。
その通りでなのであるが・・・。
そもそも、可哀想だとか、同情する、という感情は、上のひとが、下とみている相手に思うことなのだと、私は思う。
つまり、偉そうなのだ。そして、主観的であるわけだ。文学とか、そうした弱い感じの小説や、文体は、まさに、可哀想な文章を書き、人々の共感を得て、売れるところがある。
そのひとの同情に受けこむ、または、狙って、売れるわけだ。もしくは、そもそも、書いている文章が、共感できる素晴らしいものなのかもしれない。作品でも、同情を寄せるものではないものもあるからだ。
何にせよ、同情というのは、「上から、下へと、想う心なのだ」
従って、関係や、心に、上下のないひとは、同情しないのだと、私は思う。
そもそも、可哀想という感情は、偉そうで、気に入らない感情だ。ない方が良いと、私は思う。以前誰かがが言っていた、「同情するひとは、やる気がない」というものだった。
それは、まず、あたっているとして、やる気があるひとが、すべて、同情しない人であるとは言えないが、まあおおよそ、そうだとしてみると、それはそれで、人間身のない人たちが、やる気を持つことになり、ひとによっては、「機械みたいだ」とか、「人間性がない」ということになるだろう。

〈そもそも、戦士は〉

私の中では、知人がいうところの、「武士」というか、「戦士」が存在する。
つまり、このようなものだ。

①同情とは、弱き者がすることだ
②情けをかけるくらいなら、施せ
③行動しないひとが、情けをかけるのだ
④同情されるひとは、つけ込むひともいる
⑤ひとに、情けをかけている暇があるなら、自分のことをしろ
⑥それでは名は残せんぞ


などある。
このように、戦士は、同情ということをしないように思うのだ。つまり、戦いという、不条理で、少しの隙も、命取りな世界では、情けをかけるのは、油断に他ならない、と考えるところがあるからだ。
このように、同情とは、そもそも,何もしていない、もしくは、してあげれないこと、による感情なのだ。
なぜなら、同情したのなら、施すか、施せないのなら、情けをかける必要もないからだ。このように、情けをかけるなら、施す、または、諦めるなどする選択肢を持っておくのが、ベストで、あり、不快を取り去る最短の道であるといえる。

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