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真面目・不真面目・非真面目の定義

『真面目さのための不真面目さと非真面目さ』

「不真面目さの定義」

不真面目さは、ややせこくとも、何かに頼らないで目的を達成するというものである。
例えば、真偽が明らかでないことそのものを利用し、あたかも、真偽可能かのように振る舞うことである。これは、DAIGOの著書にあったように「達し得ないことをあたかも達し得るかのよに錯覚させること、及び、達し得ることをあたかも達し得ないかのように錯覚させることの2種類がある」というような言葉にあたる。
この場合、真偽が明らかでないことは、絶対に達し得ない。このことを利用して、あたかも真偽可能かというように振る舞う錯覚のことである。
不真面目さの良い例を用いると、良いこともある。
例えば、評価し得ない場所で、善を行うことは、当たり前のことだが、褒められる程度で、ほとんどボランティアである。
しかし、例えば、評価し得ない場で、善を無限大に発散させれば、話は別である。
なぜなら、その善が、個人の達し得る善の最大であるなら、評価し得ない場所であっても、褒める褒められるに関わらず、偉大な善であることは、間違いないからである。
この場合、あらゆるものを超越して、個人の最大の善を行うことが可能であり、評価し得る場所に限られた善ほど、逆に、悪である場合も起こりえる。なぜなら、利得や損得、評価し得る対象の存在は、ある意味で、その評価し得るものの限界であるからである。
その点、評価し得ない場では、善は、無限大に発散することができる。
不真面目さの定義は、曖昧になるが、不真面目であることが、絶対悪であるということはいえない。
したがって、真面目さが一般的なaのような身近な善さであるとすると、不真面目さは、bのような遠い善さであるとする。

無知な正直者がしばしば最も巧妙な食わせ者の手くだを見抜く。

ゲーテ格言集

「非真面目さの定義」

非真面目さの定義は、かなり難しいものがある。一般に、それが使えるかどうかであると定義しよう。
例えば、どのような知識、どのような知恵、それがどのような善の可能性を含んでいたとしても、非真面目さがなければ、使いこなせないのが事実である。
「それがどう使えるのか」が決め手になる場面がほとんど
である。真面目さと不真面目が何かを成し遂げる本質的な性質があるとすれば、この非真面目さは、cのような位置にある。

(真面目さ)二乗=(不真面目さ)二乗+(非真面目さ)二乗 

わたしのことばより

“a二乗=b二乗+c二乗”

ピタゴラスの定理より

まとめ

⑴真面目さは、非真面目さと不真面目さの総和

⑵不真面目さは、間接的な善さsinθ

⑶非真面目さは、直接的な善さcosθ

1=sinθ二乗+cosθ二乗

数学辞典より

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