見出し画像

小説 「友」


寒さもようやく明け、長い病棟生活に飽きた紫苑は春に平穏と希望を抱くのも無理はなかった。さりとてびまん性大細胞型B細胞性リンパ腫という10万人に1人の割合でかかってしまうこの大病を完治とはいわないまでも抗癌剤治療の8回サイクルのうちたった6回の必須のサイクルでほぼ集積なしとできたことは大いに家族を喜ばせた。
 紫苑の家族はそれほど心配してはいなかったが6月頃、彼が吐き気を模様し、1週間ほど何を食べても吐いてしまって体重が激減し、68kgあった体重も60kgまでこの短い期間に失ってしまったことが家族を心配させたものだった。
 彼がそれまで患った病気の中で一番ひどい症状だったため、彼の父である澤中忠泰が肺癌を主な原因とし、糖尿と闘ってついには死んでしまったことを家族は思い起こしたに違いない。病のほとんど50%は遺伝する。そのため、彼の癌も遺伝かと思われた。しかし、今回の病は、白血病のいとこと云われる血液の病気であったため、遺伝するものでもなかったのである。紫苑は学術的な知識を元に何が原因かを調べ回った。するとゆきあたったのが、彼の母方の祖母の病気つまり「真性多血症」であった。これは、母もその遺伝的な要素をもっており、ヘモグロビン濃度すなわち血の気が多い病気である。おそらく、この「真性多血症」なるものが進化してこの現在の大病を患ったと思っていたが、原因は不明だった。彼自身の大病を患う前のヘモグロビン濃度は、18.5ℓと通常の血の気より遥かに多く、多血症であり、確かに医者に「真性多血症」であることが疑われていたが、これはこれで稀な病気であったから、そうではないだろうと思われていた。紫苑は真性多血症という10万人に2人の難病であって、それが何らかの形で進化を遂げ、びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫という10万人に1人かかる癌になった、と考えていた。どちらも血液の病気であり、そうそうかからない稀な病気であるとはいえる。
 病気が治ってきてから、彼はヘモグロビン濃度は通常より少し下回る13ℓにまで落ち込んでしまって、普通は13.5ℓから17.5ℓ以下で貧血とされているため、ほぼ貧血症であることが見受けられる。これにて彼は多血症を克服したとも考えることができた。
 彼は病院にいる時に友を何人かつくっており、たくさんいる中で連絡が取れたのは数人であった。名前を連ねると若村秀樹、川裕人、四宮鉄三、飯田智也、黒田大志、古川忠彦、木村祐也、池田秀行などであり、連絡が取れたのはたったの3人で小林秀充、川越裕人、飯田智也であり、印象的な人物でいうなれば四宮鉄三、飯田智也、若村秀樹、川越裕人、古川忠彦がいた。
 飯田と四宮は面白い人物でいつも場を賑やかにしていた。駄洒落が多くともに師弟の関係と冗談で言い合い、いつも勝っていたのが四宮の方だった。紫苑自身も、勝負に挑んだがセンスがなく、彼らの多くの作品の数の足元にも及ばなかったため、彼は山本や、一打、若村と将棋をしていることが多かった。中でも将棋が強かったのは山本だった。山本は目に病を患っているにも関わらず、誰もそのことに触れなかった。ただ川越だけはそうではなかった。

川「おい、大丈夫か?!目が赤いぞ。やばいって・・・。」

山本「五月蝿い、これはいつできたかしらないが言うな。」

これ以上言ってはいけないと止めた紫苑は山本が視力が2.0あることを聞きその目の異様さに驚いた。川越は川越でひどい目にあっていた。時には筋肉注射を打たれてしまったこともあるほど、家庭事情に悩まされていた。彼は、タイに父がおり、母は日本人であった。離婚してまもなく母が亡くなり、叔母であるみーちゃんと暮らすことになったのだが、どうも川はそのため情緒不安定になっており、財産もみーちゃんに取られそうだと言っていた。おそらく、この叔母さんは生活保護費を横取りしようとしていたか、もしくは、保佐人として迎え入れられこの川越の弁識に欠くこと幼さを理由に金銭的にも法律的にも保護しようとしていたのかもしれない。どっちかわからないが、その後川越はワンノブ財団に引き取られ仕事をしながらのらりくらりすることになった。
 彼はバナナが嫌いで「嫌いだからやるよ」と紫苑によくバナナを渡していた。この理由を考えたが、彼はタイの血を引くがゆえにアレルギー反応を示していると考えれた。タイやフィリピンではバナナが取れる。アレルギーは炎症であり、食べ過ぎたものから発症する場合がある。そのため、彼の親族がタイ人であったら、バナナが嫌いな理由もわからなくもなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?