以前ひどい別れ方をした人から連絡が来て、和解を予感する夢をみた。
蝉の声とともに目覚めると、9時だった。猛烈な眠気に勝つために、カネコアヤノの「さよーならあなた」を流した。MVを初めて観たのだが、思ってもみない内容だったので面食らった。

「あなたに花の名前の一つでもあげることできたら」というラストの歌詞をみて、別れる相手に花の名前を教えることは、自然美を愛でる人が少ない現代においても有効なのだろうかと考えた。たしかに、花で思い出してもらえるならかなりお洒落だけれど、そうでなくとも、たとえば本や曲や匂いやあらゆるものが、記憶のトリガーになりうる。そんなことを思いながら大学へ向かった。

2限はアメリカ史の講義で、先生の作ったパワポの見やすさに今更ながら気がついた。見出しの色が統一されていたし、変な部分での改行がなかった。きれいな資料は何も引っかからず読まれるので、その凄さについて注目されることは少ない。

これはnoteでも同様である。誤字脱字がある記事は気になってしまうが、そうでなければ、整った文章ですね!とわざわざ褒められることはない。けれど、筆者がただ1人のnoteやブログなどでは、全く書き誤りのない記事はそれだけで上等だと思う。きっと投稿前に入念にチェックされているのだろうし、書き手の性格や教養なんかも表れる問題かもしれない。

テスト中、ペン回しに失敗して床に落としたシャーペンを拾い忘れた。それに気付いたのは2時間後である。さよーなら。

5限を終え、学生寮に帰ってご飯を食べていると、浴衣を着た後輩が現れた。それで、今日は祇園祭の屋台露店の日だったことを思い出した。
年間イベントは都度、1年前の思い出をよみがえらせてくれる。1年が経つのは早いものだと、月並みな感傷をうすく抱く。

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