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映画「ハニーランド」

アカデミー賞初のドキュメンタリー作品、「ハニーランド」を横浜シネマリンで観賞しました。とても示唆に富んだ作品であったので、自分なりにその意味合いを整理したいと思います。

※作品の内容に関する記述があります。



あらすじ

北マケドニア。首都スコピエから20キロ、電気も水も通っていない瓦礫の家に住む養蜂家の女性ハティツェは、寝たきりで盲目の85歳の母と二人で暮らしています。彼女はヨーロッパ最後の自然養蜂家で、巣箱を設けず、自分の家に作られた蜂の巣や、山奥の岩陰や川辺の木などにできた蜂の巣から蜂蜜を採取して生計を立てています。
そこに、フセイン・サムとその一家(妻と7人の子供)が牛の大群を連れてトレーラーで引っ越してきます。最初は仲良くやっているハティツェとサム一家ですが、ハティツェを見たフセインは自分も養蜂で儲けようと沢山の巣箱を購入し、養蜂を始めます。ハティツェは祖父から引き継いだ「半分は私に、半分は蜂に」(蜂蜜を全て取らず、半分だけいただくようにする)という言葉を金言にしており、それをサムにもアドバイスするのですが、サムはバイヤーからもっと買いたいとの注文を受け、蜂蜜を全部採取してしまいます。結果、巣を奪われたサムの蜂はハティツェの家の蜂を殺して蜂蜜を奪ってしまうのです。


各人物をどう捉えるべきか


このストーリーラインに、資本主義的な限りない欲望が伝統的な小規模サステナブル経済圏を破壊した…という構造を見るのは簡単ですし、実際解説等ではそういう表現が多い気がしますが、もう少し深く見ていきたいと思います。

まず、サム一家は本当に資本主義の体現者なのでしょうか。
そもそもサム一家がどういう人達なのか…本作はナレーション等による説明は全く無いので作品内から受け取れる情報は限られているうえ、サム一家に関しては少し探した限りではおそらく本当に情報がないので、推測に頼ることになりますが、考えてみます。
声の大きい壮年男性を中心にした9人家族のサム一家は、映画内ではマジョリティとしてハティツェにプレッシャーを与えている印象ですが、実はかなり特異な生き方を選択しているマイノリティである可能性が高いように思えます。
調べたところハティツェもサム一家もトルコ系であり、トルコ語の方言であるバルカン・トルコ語を話します。ところでマケドニアにはトルコ人は3.8%しかおらず、大半はマケドニア人で公用語もマケドニア語です。マイノリティのサム一家は、むしろ都市社会に馴染めないがゆえに逃げる様に遊動民的な暮らしを選択した可能性すらあるのではないでしょうか。
また、キャンピングカーで牛を引き連れて現れるものの、別に牛飼いに長けているわけではなく、最後には牛の多くが世話不足により死んでしまいます。隣人を見て思い立ったように養蜂を始めることから見ても、何か決まった生き方を定めている人達ではないようです。
以上の情報から推測すると、彼等は「生き難い都市で生きるより、車であちこち行きながら、色々やってみようぜ」的な、まさにその日ぐらしの「ノマド的」家族だと思われます。いっちょあの山奥に移動してみるか。牛飼いやってみるか。いっちょ養蜂でも始めてみるか。そんなノリの両親なのでしょう。

同様に、ハティツェを単に伝統的生活の体現者と捉えるのも早計です。
ハティツェは、少なくとも描写されている範囲内では、市場=首都スコピエと割と「うまくやっている」のです。また、実は彼女が住んでいる地域は、大きい都市からそれほど遠いわけではないようです。
定住しながら養蜂し、値段交渉をし、ユーロを使い生活する彼女は、住む場所こそ僻地であるものの貨幣経済に参加しており、豊かではないが母親を養えるだけの金額を得ています。だからこそフセイン・サムは養蜂で一儲けを企んだわけです。
ですが、勿論完全に市場社会に生きているわけではありません。スコピエの市場を回っているとき、寝たきりの母親を診ていることに同情され、店主から髪染めをタダでもらうシーンがあるのですが、これは象徴的です。彼女は譲渡の世界と交換の世界をバランスよく生きており、コロニーを作って生活する蜂と共存するように、コロニーで生活する都市部の人間達とも共存しているのです。

このように捉え直すと、ぱっと見の「辺縁者=ハティツェvs資本主義者=サム一家」という構図は、登場人物がその二者だけであれば、むしろ逆転さえします。ですが実はもう一人、物語構造上非常に重要な人物がいます。ハティツェの蜂の全滅という「破滅」のトリガーの役割を担う、フセインから蜂蜜を買うバイヤーです。彼は最初乗り気でないフセインに対して、もっと買うからもっと採取しろと炊きつけ、創世記の蛇のような「破滅へのそそのかし役」を担っています。

さて、このように三者を見てみると、資本主義-伝統の二項対立ではとらえきれず、遊動社会(サム一家)、中小規模共同体社会(ハティツェ)、市場原理主義的都市社会(バイヤー)の三つ巴の構造とみることが出来ます。
それぞれ、人類の時系列に伴って、遊動民時代、定住開始以降、グローバル資本主義の三段階に分けることもできます。真ん中(ハティツェ)を、地産地消やサステナブル経済といったアイディアと結びつけることも可能でしょう。


人物達を分けるもの

そのうえで、本作において対比の補助線としては何を引くべきでしょうか。つまり、これまで蜂と共存し続けてきたハティツェと、蜂を全滅させたサム一家とバイヤーとの違いは何だったのでしょうか。
それは勿論、トレーラーや解説で何度も引用されている「半分は蜂に、半分は私に」という「知恵」を持っているか否かに他なりません。ヒトが短期的にしか行動できない生物であり、それによって失敗することが必然だとするならば、世代を超えて引き継がれた知恵は一つの解決策になります。
監督のインタビューでは、サム一家は破壊者の象徴ではなく、生存の過程で悪い選択を採ってしまう我々全ての写し鏡として描写したかったと言っていますが、その「悪い選択」を避けるものこそが知恵であると言えるでしょう。

次から次へと別のビジネスに手を出す遊動的生き方をするサム一家には、知恵の蓄積がありません。結果的に、バイヤーはサム一家を唆し破滅に導きますが、この二者は知恵を軽んじ短期的利益を追求するという点で同一であり、実は相性がいいと言えます。違いは、一斉収穫のリスクをサム一家に転嫁することで、バイヤーのみが利潤を手にして次の市場を探しに行けるのに対し、サム一家は破滅するという点です。
そして彼らが組むことで再生産不可能な規模の消費が起きてしまい、小さなエコシステムを回すことで独立して継続的に存在していた中小規模共同体も含め、全てを破壊するという最悪の結果が生まれる…いうのが今作のメタファーと言えるでしょう。

「知恵」は単にノウハウであることに留まらず、「ふるまい」をも規定します。これもインタビューで触れられていましたが、「半分は蜂に、半分は私に」という教えを遵守して生き、蜂から全てを学んだというハティツェにとっては、その教えは単に養蜂のノウハウではなく、彼女の生き方、考え方全ての指針になっているのです。
それはサム一家と普段の暮らしぶりとの対比からも伺い知ることが出来ます。サム一家、特に夫婦の特徴として、とにかく失敗を人のせいにする点が目立ちます。牛が死んだときも、誰が世話をしなかったからだ、自分は別の仕事をしているのだからお前のせいだ、と家族内で押し付け合います。人生の多くを寝たきり、盲目の母親の世話に捧げるハティツェは、自分の人生の半分を自分に、半分を母(他者)に…と言わんばかりで、サム一家とはあまりにも対照的です。
サム一家の子供は親にうんざりし、いいつけを無視してハティツェと遊びます。そこに大切なものがあることを本能的に理解しているのかもしれません。

最後に、対比する中でハティツェの生き方の良い面にフォーカスしてしまいましたが、重要な示唆を挙げて終わりにしたいと思います。
本稿ではあまり触れられませんでしたが、決定的に重要なもう一つの関係性として、ハティツェと母との関係があります。海外記事では女王蜂と働き蜂に例えられることが多かったのですが、実際、彼女を瓦礫の家に留めるのは、世話が必要な寝たきりの母です。
ハティツェが母に、なぜ私の縁談を断ったのかと聞くシーンがあります(この質問をすること自体に、嫁ぎたい思いがあったことを示唆しています)。問われた母は、私ではなく夫、ハティツェの父が断っていたのだと答えるのですが、これもまた象徴的です。BBCの紹介記事によると、北マケドニアに限らず、古い習慣が生きる地では、女性を両親の世話係として残しておくという発想は珍しくないとのことです。祖父の教え=知恵に厳格に従うことよって蜂と共存し生計を立てている彼女は、父の強権によって人生の可能性を奪われていたのです。中小規模共同体と喩えましたが、その本質が知恵であるとするなら、それは即ちディシプリン=規律ないし伝統的強権、ルールと表裏一体で、極論すると中世的なのです。ディシプリンに従うことは「良い暮らし」を保証しますが、人間を抑圧します。強権から解放されているバイヤーやサム一家は、短期的視野によりエコシステムを破壊します。

「知恵」によって成り立つ暮らしは、短期的で無限の欲望を持つ人間をどこまで抑えることが出来るのか。言い換えれば、所謂「サステナブル経済」は、それを営む主体がヒトである以上、本当にサステナブルなのか。映画は、時間的には、母が死んだところで…ドラマ上は悲しみのフックですが、同時に彼女を縛る強権の名残りが消滅したところで…終わります。ハティツェはその後どう生きるのか。そのような問を残されたように思います。


おわりに


映像は、我々の周りに無いものに満ちていました。広大な自然と、防護服なしで蜂と触れ合うハティツェの画はそれだけで訴えるものがあります。また、夜の瓦礫づくりの家の中、ランプによって照らされる老人と女性は中世の宗教絵画そのものです。その映像だけでも一見の価値があると思います。

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Ququ
漫画を描いています。本を買ったりサポートしていただけると励みになります。