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滝田洋二郎『おくりびと』

滝田洋二郎『おくりびと』を観る。仕事とはなんだろう、と(柄にもなく)考えてしまった。私は遡ること20年以上前、就職氷河期の影響でどこの会社からも内定を得られず、やっとのことで故郷とある会社の職にありついた。そして、そこでの仕事をずっと続けている。これが天職だとか一生の仕事になるとか、そんなことは考えたことはない。ただ、ここでこの仕事を辞めたらそのままニートになるか、もっと酷いことになるかと思って現実/リアルにしがみつくために私なりに必死で頑張った。この映画で納棺師という仕事を一生の仕事にできるか、本木雅弘演じる主人公は訊かれる。その場面からふと、こんな「一生の仕事とはなにか」という問いをを考えさせられたのだった。

主人公の大悟はオーケストラでチェロを弾いていたのだけれど、突然楽団の解散を言い渡される。彼は妻に内緒で新しいチェロを高額で購入しており、まさに青天の霹靂の事態だった。やむを得ず実家の山形に戻った彼とその妻だったが、ひょんなことから新聞の掲載広告を見て「NKエージェント」という会社の求人に申し込む。だが、「NK」とは「納棺(のうかん)」の略で死者を弔い身綺麗にして送るのがその仕事内容だった。高額ということもあって右も左も分からないまま働き始めた大悟だったが、果たしてその仕事内容は狭い町の噂になり始め肩身の狭い思いに駆られる。だが、その仕事に就くからこそ得られる喜びもあるのだなと思い始める。

さて、私の自分語りを続けると私は若い頃は本気でアホだったか頭がおかしかったかのどちらかで、「生に意味はない」「死にも意味はない。誰の死も犬死だ」「自分が死んだら 葬式などせず、生ゴミとして処理して欲しい」と本気で思っていたことがあった。我ながら噴飯もの/赤面ものだったなとこの映画を観て思い出したのだが、では「今」の私が死にきちんと対峙できているかというとそう威張れたものでもないことがわかり、改めて恥を感じる。人から蔑まれ、故に高給という待遇を得られる(その金銭的な恵みが逆に「差別」の残酷さを物語っている)「納棺師」という仕事がありうることをわかっていなかったな、と思うのだ。

なので、この映画を改めて観て死が私たちの社会からいかに排除され、汚らわしい/アンタッチャブルなものとして扱われているかを思い知らされたりもしたのだった。だが、それだけなら説教臭いだけの作品となるだろう。この映画は時にユーモアを見せる。あるお婆ちゃんが生前ルーズソックスを履きたかった、という事実が明らかになるところ。あるいは別の死者は生々しくキスマークをつけられたまま送られる。それ以外にも細かいユーモアは存在するのでこの映画に人肌の温もりというか、こちらを突き放した高飛車な態度とは真逆の性格を加えることに成功していると思われる。

だからこそ、この映画は死にユーモラスなタッチを加えることでより厳粛に描くという離れ技を成し遂げているとも思う。2度目の鑑賞なのだけれど、最初観た時とは違い「この死生観/美学は小津にも通じるのかな」と思ってしまった。いや、小津を特権化するまでもなく日本古来の死生観というのはみんな同じだ、と言われるかもしれない。つまり、死をいたずらに汚らわしい/アンタッチャブルなものとして描かず、むしろ生の延長線上にあるものとして描くこと。死もいずれ誰もが経験する、この映画の言葉を借りればいずれくぐるべき「門」であることを噛み締める。それがこの映画の醍醐味ではないかと思った。

そして、この映画はそうして大悟の「納棺師」としての成長や人間としての成長を描くことと同時に、彼の仕事に否定的だった妻の回心/翻心から来る成長を描いていることもまた作品に独自の明るさをもたらしているな、とも思ったのである。彼らは子どもが授かったことが明らかになるのだが、その子を生み育てることを通して生者が次の世代へ、また次の世代へとなにかを託していく(ちょうどこの映画の「石文」のように)ことこそが生きることの真髄であることが伝えられる。物足りない点が皆無であるとは言わないにしろ、なかなかわかりやすく細かく作られたいい作品だと思った。

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