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英語定住記/English Settlement 1

今日、ぼくは水村美苗『私小説 from left to right』という本を読みました。この本は子どもの頃にアメリカに渡って、そこから日本語と英語を話せる人間として生きてきた「美苗」という女性の半生を綴ったものです。この本の中には面白いことが書かれています。アメリカに渡った日本人の子どもである彼女は、「私」と「アメリカ」の間の溝を感じたわけではなかった、と。むしろ「日本語の中の私」と「英語の中の私」との間に溝を感じたそうです。彼女は今で言うところの「バイリンガル」でしょうが、それは彼女を幸せにしたことがない、とぼくは受け取りました。

ぼく自身のことを考えさせられます。ぼくは日本に生まれて、ずっと日本で生きてきました。ですが日本の教育の要請により英語を学び、その英語学習に費やした期間はぼくの人生のほぼ半分の期間を占めています。13歳の頃から始めて今に至るわけですから。もちろんぼくは一時期英語どころか生活そのものを放棄して生きてきた時期があるのでその空白期間も込みで考えないといけませんが、それでもずいぶん長く英語を学んできたなと思います。そしてぼくは最近になって英語で発信することを始めました。このぼくなりの「バイリンガル」ライフは今後も続くようです。

ぼくの中には「日本語の中のぼく」と「英語の中のぼく」の「溝」はあるかどうか、考えてしまいます。もちろん水村さんはアメリカで孤軍奮闘して生き抜いてきた人だから一緒にするのは無理がありますが、それでもぼく自身この「溝」をどうにかして埋めようとして埋まらず、それどころかぼく自身が「溝」にハマって立ち往生することもあります。この「溝」はぼくが日本人として生きてきた過去がある限り(それはぼくが日本人として育ってきた歴史を持つ限り……ということはぼくがこのぼくである限り、ということなのだと思いますが)なくならないのでしょう。

そう考えてみると、言葉というのは面白いなと思います。言葉があって、それがぼくならぼくという人間を造り上げている。ぼくはいつの頃からか、ぼくを造り上げた言葉である日本語とそのぼくが(どういうわけか)学ぼうと試みている英語についてあれこれ考えるようになりました。こうして書いているぼくの中にはどんな言葉があるのか、その言葉を通してこうして文章を書く過程でぼくはどんな思い出を紡ぎ出すのか、そんなことを試してみたいと思うようになったのです。少しずつですが、これから書いていきたいと思います。

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