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ウォン・カーウァイ『恋する惑星』

ウォン・カーウァイ監督『恋する惑星』を観る。個人的な話をすれば、この映画が公開され話題となった90年代半ば、私は映画というものを全然通らずに過ごしていた。今になってこの映画を観たのだけど、ここに展開されているものが今でも普通に通用することに驚く。流石にポケベルが出てくるのには懐かしさを感じるし、手紙をやり取りするのだって今の時代ならスマホでLINEでいっちょあがりという感じだろう。だが、この映画の「普遍性」について考えさせられてしまった。それはこの映画が完成度が高いから、というのもあるかなと思うのだけど、同時にこの映画が村上春樹的な奇妙に脱臭された恋模様を描いているからかなとも思ったのだった。

二組のカップルを軸に映画は展開する。彼らがどういう素性の持ち主なのかこの映画ではひと筆書き程度にしか語らない(というところも、村上春樹的な洗練/ソフィスティケートされた語り口に似ている)。その単純な人物造形故に私たちは、彼らに様々なものを投影させることができる。私たちが彼らの来歴を想像したりすることだってできるし、彼らが感じていることがなんなのか類推することだってできるのだ。そうして私たちは、キャラクターと半ば対話する形でこの映画を観ることができる。それがいい悪いは別として、そうした相互性がこの映画のキモかなと思う。

その意味では、この映画は同じようにキャラクターをひと筆書き程度に語りそこから私たちに様々な過去や感情を類推させる映画とクリソツであるとも言えるのだ。謎解きを楽しむ映画、もしくは不条理な映画と似ていると言ってもいいのではないか。例えばデヴィッド・リンチのような……少なくともこの映画から私が感じるのは、なんだか不気味な(だけど同時に愛らしい)登場人物たちの行動がもたらす可笑しさであり、同時にシュールさでもある。自分の部屋に忍び込まれて缶詰の中身を変えられても気づかない警察官(!)の姿には思わず私の中の三村マサカズがツッコミを入れてしまった。

が、そんな歪んだ感想を抱いてしまう理由は私の個人的な来歴に由来するとも思う(だから、この映画はそんな「私語り」をさせてしまうという点でイヤミ抜きに優れているとも思う)。私は、実を言うと恋をしたことがない。今年で46歳になるのだけれど未だにキスすらしたこともないし、女性からは酷く嫌われる人生を歩んできたので未だに謎な対象としてしか捉えられない。私は恋愛というものは所詮「共同幻想」でありもっと言えば「妄想」に近いのではないかとも思っている。ありもしない「純愛」を信じ、「純潔」を信じ、欲望の醜さを糊塗する、というようにだ。

そんな私にとって、この映画の登場人物たちの行動はほぼみんなスットコドッコイに感じられる。期限切れが近づいているパイナップルの缶詰を一日に30缶平らげるというイベント。もしくは失恋で涙を流したくないからジョギングに励むという行動。上述した缶詰のこともある。そんなスットコドッコイな出来事を、自然に見せるというのとまた違った形で(むしろそのスットコドッコイさこそ、作品風土の非現実的な夢物語としての濃度を高めると感じさせる形で)描写し胸のすくようなラブコメに仕上げたのがこの映画だと思う。ならば、その非現実的な濃度の高さ故に今も(そして、恐らくは当時から既に)観られる軽快なコメディとして消費できるとも言えるのではないか。

なんだか悪意のある書き方になってしまったが、私はこの映画を嫌いになれない。前は「なんだかスカした映画だな」と思っていたし、彼らのツッコミどころ満載の行動に私の中の三村マサカズが反応したりもしたのだった。だが、癖のあるものだって慣れれば美味しいのは食べ物も映画も同じ。この映画を二度三度と観ていくうちに彼らのスットコドッコイさが愛おしくなったし、さり気なく死を織り込んで作品に独自の諦観と享楽を与えている語り口の上手さも認めざるをえないなと思ったのである。私はこの映画から選ばれた観衆ではないと思うので、選ばれなかった人間として私なりに誠実に感想を書いてみた。

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