アントン・コービン『コントロール』
アントン・コービン『コントロール』を観る。アントン・コービンと言えば泣く子も黙る、ロック界に名だたる著名なアーティストの写真撮影を手掛けたことで有名なカメラマンである……ことくらいはボンクラな私も知っていた。私自身実は、かつてはそのアントン・コービンの写真を使ってイメージアップを計っていたU2やデペッシュ・モードといったバンドを追いかけるロック小僧だったからだ。だが、なんと映画も撮っていたのだなと思いこの『コントロール』を観てみた……結果としては「難しいな」かと思った。だが、単に凡作を撮ったということならこんな駄文を書かせる動機さえも湧かないはずなので、この映画には確実に何かがあるのだった。では何だろう(もちろん、映画評を逸脱する何かかもしれないけど)。
この映画はイギリスにおいて(今の視点からすると所詮カルト的ではあったかもしれないけれど)人気を博したバンドであるジョイ・ディヴィジョンの中心人物/ヴォーカリストのイアン・カーティスに迫った作りになっている。彼の死はロック史に残る痛ましい自殺であったわけだが、この映画ではそんな彼がジョイ・ディヴィジョン(厳密に言えば、その母体であるワルシャワというパンクバンド)加入から自殺までを極めて誠実に追いかけた構成を採っている。ジョイ・ディヴィジョンを知らない方にも、彼らの音楽の魅力やイアンの人となりはそれなりに伝わるのではないだろうか。
それにしても、ここで披露されるジョイ・ディヴィジョンの演奏とは何と若々しいことだろう。私はイアンの自殺を物心ついてから初めて知った(何せ当時5歳だったのだから)。だからCDやサブスクで彼らの演奏を聴くわけだが、どうしてもスタジオ盤の冷え冷えとした音質に触れる回数が多くなる。したがって彼らの音楽は無機的な、J・G・バラードのSF小説にも似たクールな質感を伴ったものとしてイメージされる。だが、この映画で披露される彼らのライヴは実に熱い! 汗みずくになりながらイアンは低音のヴォーカルを張り上げて叫び、踊る。これこそがジョイ・ディヴィジョンのキモなのだな、と思わされた。
だからこそ、そんな汗みずくで踊り叫ぶイアンと生身のイアン(つまり「ハレ」のイアンと「ケ」のイアン)のギャップが痛ましい。イアンは職業紹介の仕事をしながら何とかデボラという女性と結婚し、子どもも授かって貧しいながら慎ましく生きていた。そのイアンはジョイ・ディヴィジョンの成功によって少しずつカリスマ的な存在として見なされ、彼が登場しないステージは観客の怒号によって満たされるという事態にまで繋がる。イアンが繊細な文学青年(自分の詩や小説を几帳面にファイリングしていたくらいだ)だったことを考えれば、その成功はプレッシャーだっただろう。
だが、その成功のプレッシャーや彼自身がてんかんを病んでいたことで薬の副作用に悩んでいたらしきこと(期せずしてこの悩みは、やはり投薬の副作用に苦しんでいたというカート・コバーンの悩みとシンクロするのではないかと思ったが、誤解があるかもしれない)、そういった苦悩は彼からセリフやモノローグとしてはなかなか現れない。全てはモノクロームの重苦しく息苦しい画面の中で静かに、淡々と語られるだけなので緩急のテンポもさほど存在せず、したがってツルツル観られることは観られるのだけれどこちらの心に傷を残すようなショットにはなかなか繋がっていない印象を抱いた(いや、「そう書きながらイアンが汗みずくだったとか書いているのはなんだよ」と半畳を入れられるかもしれないが)。
だから、イアンはただ尻軽なせいでデボラという妻を持ちながら浮気したり、ロックスターがありがちな成功のプレッシャーに苦しめられたりした人という整理に収まるところがあるかな、と思うのだ。既成のイアンのイメージをうまくなぞった映画ではあるけれど、もっと冒険してもいいのではないか、そんなイアン像をぶち壊すような内面の吐露やパフォーマンスの熱の凄みをぶつけてもよかったのではないかな、と思った。そのあたりがこの映画に感じた私のこのないものねだりの正体かもしれない。ただ、汗びっしょりのイアンの熱唱は確かに観る価値はあるとも思うので、改めて剣呑な思いをする。
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