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まなざしと風景――国立西洋美術館『憧憬の地ブルターニュ』展

 国立西洋美術館で開催中の企画展『憧憬の地ブルターニュ』を観てきた。都内の大型美術館に足を運んだのは久方ぶりであった。日々の雑事に追われるあまり、表現者としても鑑賞者としても芸術から遠のいていたことを痛感する。交響曲に身体を、風景画に心を揺さぶられなくなってしまう日は、刻々と近づいているのかもしれない。ひとまずその猶予を延ばすべく、忘れないうちに感想をしたためておくことにする。

『憧憬の地ブルターニュ』概要

〈基本情報〉
会場:国立西洋美術館(東京・上野)
会期:2023年3月18日〜2023年6月11日
料金:一般 2100円 / 大学生 1500円 / 高校生 1100円

 フランス北西部、大西洋に突き出た秘めやかな土地であるブルターニュに焦点を当て、日欧50人以上もの画家たちのまなざしを借りながらその奥深さを繙いていく。

 本展は、全4章から構成されている。

Ⅰ. 見出されたブルターニュ:異郷への旅
Ⅱ. 風土にはぐまれる感性:ゴーガン、ポン=ダヴェン派と土地の精神
Ⅲ. 土地に根を下ろす:ブルターニュを見つめ続けた画家たち
Ⅳ. 日本発、パリ経由、ブルターニュ行:日本出身画家たちのまなざし

『国立西洋美術館ニュース ゼフュロス』86号

 第1章から第3章にかけて、19世紀初めの「ピクチャレスク・ツアー(絵になる風景を地方に探す旅)」を契機として、深化していく欧州作家のブルターニュ像を鮮やかに示す。最終章では、黒田清輝ら日本人作家の足跡を辿りながら、ブルターニュに向けられたまなざしの相対化を図る。

 メディア向けの宣伝ではモネ、ゴーガン、黒田清輝の作品を中心に取り上げられていたが、この地を眼差す者は彼らだけではない。作家の数、作品の数だけのまなざしがブルターニュを描き出す。以下、ごく私的な見どころを交えつつ、少々阿呆な感想を書き連ねていく。


見どころ1:ブルターニュの印象――モネのイマージュ


 国立西洋美術館といえば《睡蓮》と言えるくらいにはモネ作品に重きを置いているが、今回の企画展ではベリール(Belle-Île)の海岸沿いを描いた3作品が集められた。

 まずは、チラシや図録の表紙を飾る《ポール=ドモワの洞窟》。ポール=ドモワの巨大な洞窟が豊かな色彩と共に描かれている。

クロード・モネ《ポール=ドモワの洞窟》1886年、
茨城県近代美術館

 陽光を浴びた穏やかな海面を描いた《ポール=ドモワの洞窟》とは打って変わって、《嵐のベリール》では荒れ狂う波の中に厳然と佇む岩礁が印象的だ。

クロード・モネ《嵐のベリール》1886年、
オルセー美術館(パリ)

 モネが「プリミティヴなイメージ」をベリールに求めたのは、彼が1980年代に都会や行楽地の喧騒を倦んだことからも想像に難くない。最果ての、未開の地に身をおいて自然と対峙しようとする姿勢は、荒々しい木炭デッサン《ベリールの海》にも顕著に表れる。

クロード・モネ《ベリールの海》1990-91年、
国立西洋美術館

 うーむ、何だこれ。もずく??同じモティーフ、ほぼ同じ構図でも、色彩の有無でこんなにも感じ方が変わるとは。ベリールの厳しさをモノクロ世界に落とし込もうとするモネの苦心が見て取れる。

 それにしてもモネのブルターニュには、光のなかにもほの暗さが感じられる。この暗さの正体を影だと考えたとしても、真っ暗な闇とは一線を画する。光と闇を対置するとき、影はきっと光の側に属するはずだ。モネを追う印象派画家、ポール・シニャックの《ポルトリュー=グールヴロ》の影には、暗色の色彩――暗い光が認められる。

ポール・シニャック
《ポルトリュー・グールヴロ》1888年、
ひろしま美術館


 最果てのブルターニュは、立ち寄る者の目に鮮やかさも厳しさも映し出す。このイマージュこそが憧憬の原点であり、あとに続く私たちにぼんやりとした光の像を提示する。

 余談だが、ブルターニュの最西端に位置するフィニステール県は「地の果て」(仏語:la fin de la terre)をその名称の所以とする。何というか、めちゃくちゃかっこいい。これに心を踊らせた男の子はきっと、「黒の一団―バンド・ノワール―」にも目を輝かせることだろう。


見どころ2:地に根を張る作家たち――アンドレ・ドーシェの写実


 今回の企画展で私の一番のお気に入りは、アンドレ・ドーシェの《樹と流れ》。ブルターニュに居を構えた画家の作品群として第3章に登場するこの絵画は、樹木の描写があまりにも巧みだ。

アンドレ・ドーシェ〈樹と流れ〉1919年、
国立西洋美術館

 ドーシェ、マジで絵が上手い。上手すぎて最後に戻ってもう一回観に行った。

 非常に精緻で、とことん写実を極めた筆致からは、一つの土地に腰を据えることの熱量が伝わってくる。イマージュの中のブルターニュというより、地に足をつけた、現実世界のブルターニュである。

かくも美しい――木々――それはかくも人間的である。われわれはその肖像を描くのだ。

アンリ・リヴィエール『伝記』(1937)

 たしかに根を張った木々は、部落の長老のような雄弁さをもって、その土地をものがたっている。もはや「異国の地」として示されたかつてのブルターニュの姿はなく、真なる対話の末の脚色することない実像が認められる。やはりドーシェと比べてしまうと、観光気分を排したつもりのモネとて、一人のミーハーか。


見どころ3:和訳されたブルターニュ?――アンリ・リヴィエールと日本


 本展の終章、第4章では日本人作家の視点を通したいくつものブルターニュ像が並び、前章までに提示された個々のまなざしをはっきりと切り分ける。ブルターニュを描いた日本人作家たちは、滞在期間も技法も様々であり、ひとくちに日本人とまとめ上げることは難しい。

 黒田清輝は来訪者としてブルターニュの光を瑞々しく描き、久米桂一郎は長期滞在のなかでしっかりとした光陰を残した。マルタン風の光に満ちたポスト印象派を受け継いだ斎藤豊作がいれば、日本画風の版画として切り取った山本鼎もいる。

山本鼎《ブルターニュの入江(水辺の子供)》、1917年
東京国立近代美術館


 最終章を観終えて立ち返ってみると、第3章冒頭の特集「Ⅲ-1. アンリ・リヴィエールと和訳されたブルターニュ」の異質さに驚かされる。アンリ・リヴィエールは世紀末のジャポニスムを牽引した作家であり、葛飾北斎の『富嶽三十六景』にちなんで作られた『エッフェル塔三十六景』が有名である。本展では、「ブルターニュ風景」や「美しきブルターニュ地方」、「時の仙境」などの連作が集められた。

アンリ・リヴィエール
連作「ブルターニュ風景」より:
《ロネイ湾(ロギヴィ)》1891年、
国立西洋美術館

 「ブルターニュ風景」にも北斎の浮世絵への傾倒が現れており、これが想像以上に日本風なのだ。ジャポニスムを日本文化の仏訳として、多くの誤訳を含むものであると考えても、リヴィエールの作品群のブルターニュはかなり正しく和訳された姿だと言えよう。しかも彼は一切訪日したことがないという。いやはや、天晴。


総評として――素人による感想のようなもの


 「西洋」美術館にしてはめずらしく、かなりの数の国内作品が展示されていたように感じた。おそらくは昨今の情勢から国外所蔵のコレクションをどんと収集するのが難しいためなのだろうが、コンセプトがしっかりしているおかげで、物足りなさをまったく感じさせない、大変充実した企画展であった。 

 本展の副題「モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」は、フランス語では «regards de peintres français et japonais» と表記されている。つまり、モネ、ゴーガンはフランス人(ないし欧州人)作家、黒田清輝は日本人作家の代表に過ぎない。実際にこの企画展では彼ら以外にも多くの視点が遍在する。

 私はここではおおよそ風景画のみについて書き留めたが、展示においては1割ほど、人物画も並んでいた。しかしながら、その多くが女性や子どもの姿を描いたもので、労働を含む実生活と乖離した印象が否めない。都市から地方に向けられた浮世離れした眼差しは、良くも悪くも「憧憬」なのであろう。皮肉にも都市生活者は眼差す立場にしかなれない。その分、半ば定住したドーシェなどの作品には、ぐっと深く沈み込むような感傷を覚える。

 全体を通して強調されているのは、ブルターニュに向けられた幾千ものまなざし――とりわけ憧憬のまなざしである。燦々たる主題・ブルターニュに、鑑賞する私たちもまた憧憬を注ぎ込むに違いない。

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