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東京で生まれ育った22歳が、なぜか大分の古民家(山奥)で暮らしながら駆け出しモデルになる、のお話。|第1話

初めまして、こんにちは。KOJI(@qunelasob)と申します。
もともと東京生まれ東京育ちで、18歳までずっとサッカー漬け。東京から出たことがなかったのですが、ひょんな事で20歳の時に大学を辞めて大分へ移住しまして、現在は大分の古民家(山奥)で暮らしながら、駆け出しのモデルをしております。
このマガジン「くう、ねる、あそぶ。」では、相方のももちゃんと共同で、主に古民家での暮らしについて執筆していきたいと思います。

そんな今日は、東京で生まれ育った22歳が、なぜか大分の古民家(山奥)で暮らしながら駆け出しモデルになるまでのお話をしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

サッカーのプロになっていっぱい稼いで1億円あげる!

1996年10月1日 東京の立川という町で、消防士の父とそれを支える母のもとで、6歳上の兄貴の弟として生まれます。

物心ついた時からサッカーボールと友達。ちょうど日韓W杯も開催されたこともあって、将来の夢は”プロサッカー選手”でした。

大好きなじいちゃんには「サッカーのプロになっていっぱい稼いで1億円あげる!」と毎日のように約束をしていたのを今でも覚えています。

練習に行くことが嫌いになった日。

得意技はドリブル。ボールをもらったらパスなんかせずに、ドリブルでみんなのことをビュンビュン抜いて、ゴールを決める。自分のやりたいように、自分の好きなようにプレーをしていると、それはそれはもう最高の感覚。

しかし、小学生の時にそれだけではダメなんだと痛感する出来事が。

それまで担当してくれたコーチが仕事の都合で来れなくなってしまい、新しいコーチが練習を担当してくれることに。そのコーチはプロを輩出したこともある方で「基礎をきっちり叩き込む」を大事にされていました。

「ドリブルよりも、まずは正確にボールを蹴れるようになること!」

いまから考えればそれも大事だとわかるが、当時の僕がそんなことをわかるはずもなく「急に大好きなドリブルを奪われてボールを蹴る練習ばっかでつまんない!」と思っていました。

しかしその思いは、決して口に出すことはできなかったのです。

それまでは聞いたことのなかった怒鳴り声がコート中に響き、時には目の前で泣きながら練習をする仲間もいました。サッカーをすることが喜びから恐怖に変わり、そのうちどんどん仲間が辞めていく…。

残ったチームメイトたちも、コーチの息子さんに「今日〇〇コーチくる?」と毎日聞いており、来ないとわかった日には心の底からホッとして足取り軽く練習に向かっていた。ただサッカーをするだけなのに、あの光景は異常だったなといまでも身震いがします。

突然壊れた、あの日。

ある日、僕は家の二階、部屋の隅っこに。「練習時間に間に合わないよ!」と心配した母がコツコツ、、、コツコツ、、、二階に登ってくる。

「い、き、た、くなぃ」

出ているかわからない声で、僕はそう母に伝えたのでした。

「どうしたの?」と聞かれても説明できず。ただただカラダが動かない、そんな感覚でした。それから練習に一切行けなくなりました。

数日経った頃。夕食後に牛乳を飲もうとグラスを傾けた時、口からスーっと牛乳が溢れるのです。心配になって病院に行ってみると、

「右半身顔面麻痺」

という、顔のみ側半分が使えなくなってしまう病気であることがわかりました。口も、目も右側だけ一切ゆうことを聞かないのです。お医者さん曰く、かなり強いストレスがかかったことが原因ではないか、とのこと。

この時に、人のカラダってこんな簡単に壊れるんだ、ということを知ったのです。

ここまで書いてみましたが、とてつもなく長くなりそうなので本日はここまでにしたいと思います。また書いてみますね。

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