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元日本テレビのディレクターによる伝説のクイズ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』の回顧録を電子書籍化!

 『アメリカ横断ウルトラクイズ』世代の40代からクイズゲーム世代の10代まで、全てのクイズファンに贈るクイズ総合誌「QUIZ JAPAN」です。

QUIZ JAPANとは?

『アメリカ横断ウルトラクイズ』や『パネルクイズ アタック25』などのクイズ番組特集、クイズ王やクイズ番組制作スタッフなどのインタビュー・対談記事など、クイズにまつわる古今東西をフィーチャーするクイズカルチャー誌です。
クイズ問題集やクイズプレイヤーの自叙伝などを刊行する「QUIZ JAPAN全書」シリーズも刊行しています。

オリジナルのクイズ番組を配信するニコニコチャンネル「QUIZ JAPAN TV」、リアルイベント「イントロクイズナイト」など、クイズを楽しむコンテンツやイベントも運営しています。




『アメリカ横断ウルトラクイズ』の回顧録
『MAKERS ウルトラクイズの匠たち』

QUIZ JAPAN本誌vol.14〜16に掲載した、元日本テレビのディレクター・加藤就一氏による日本のテレビ史上に金字塔を打ち立てた伝説のクイズ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』の回顧録『MAKERS ウルトラクイズの匠たち』を、電子書籍版としてお届けします。

『アメリカ横断ウルトラクイズ』の舞台裏で番組を支え、のちに総合演出を務めた加藤就一氏が、がむしゃらに走り回った青春の日々をつづっています。

加藤就一
1957年生まれ。1980年に日本テレビ入社。『木曜スペシャル』に配属され、第5回より『アメリカ横断ウルトラクイズ』を担当。第7回3週でディレクターデビュー。第11回よりテレビマンユニオンの後を継ぎ、総合演出に就任。その後、報道局ニュースセンターに所属し、『NNNドキュメント』でディレクター/プロデューサーを務める。2013年には『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』で科学ジャーナリスト賞を受賞。

QUIZ JAPAN本誌より

第1回「匠たちとの出会い」は加藤氏が初めて配属された『第5回アメリカ横断ウルトラクイズ』の立ち上げから国内第一次予選までを振り返ります。伝説の「通せんぼクイズ」の誕生秘話は必読!

なお、本回顧録はQUIZ JAPAN本誌で掲載した第1回から第3回に加え、電子書籍版として新たに描き下ろす第4回以降も順次配信予定です。 

第1回 匠たちとの出会い
・第2回 近日公開予定
・第3回 近日公開予定
・第4回〜 公開時期調整中

Kindle版も発売中です

なお、本書はKindle版も発売中です。ご使用環境の都合に合わせて、ご購入いただくプラットフォームをご選択ください。


『MAKERS ウルトラクイズの巨匠たち』
第1回「匠たちとの出会い」

note版『MAKERS ウルトラクイズの匠たち』第1回「匠たちとの出会い」は有料のPDFファイルからご覧いただけます。冒頭の内容を公開しますので、続きが気になる方は是非PDFファイルをご購入ください!

『木曜スペシャル』での初仕事

『アメリカ横断ウルトラクイズ』を作りたい、スタッフになりたいという志望動機で私が日本テレビに入社できたのは1980年のことだった。新人研修を終え配属されたのは『木曜スペシャル』。『木スペ』の略称で当時広く知られていた。矢追純一のUFOや引田天功の大脱出、さらには本格的なピラミッドをエジプトで建ててみたりと、毎週違うテーマのゴールデン90分スペシャルだった。もちろん『ウルトラクイズ』も『木曜スペシャル』で放映していた。配属がその『木スペ』に決まり「ヤッター!」と心の中でガッツポーズ。『第4回ウルトラ』に途中から参加させてもらえるかなとニンマリしていた。ところが当時の『木スペ』のチーフプロデューサー・石川一彦が一向に自分に「『ウルトラ』に行け」と言ってくれない……。彼から命じられるのは「パーラーからミックスサンドとアイスミルクティーとって」という毎朝の出前注文だけだった。
 後楽園球場の予選の日程が迫った7月末、いつもの朝昼兼用のミックスサンドを食べながら仕事をする石川CPに恐る恐る、「あの〜『ウルトラクイズ』に私は……」ともみ手で話しかけたところ、「100年早い!!」とニヤリ。「ははぁ」と殿に最敬礼して後ずさり。そんな私にすかさず、石川CPから「お前は南の島から持ち帰った日本海軍の爆撃機の復元をやれ」と指令が下った。『ウルトラ』は残念だが、なにやら面白そうな話。「ありがとうございます! 精進します!!」と軍隊口調で返答した。

 その企画はこうだ。グァム島の南にあるヤップ島に旧日本軍の滑走路がある。そのわきに、程度のいい艦上爆撃機〝彗星〟を発見した。滑走路わきといってもジャングルに覆われてしまっている。その機体を日本に持ち帰り、日本を飛び立った記録のある木更津の自衛隊基地に持ち帰り、復元(リストア)するというのだ。言うは簡単だが行うは難し。朽ち果てていても艦上爆撃機。まるごと一機をどうやって日本に持ち帰るのか? 当時、ヤップ島にはコンチネンタル航空しか飛んでおらず、機体もボーイング737と小さい。何便かに一便、カーゴフライトがあって、その半分が乗客、残り半分がカーゴにあてられる。そのカーゴの部分に〝彗星〟を積んで持ち帰るというのだ。「入るわけないよな」と思っていたら、さすが『木スぺ』! 機体を両翼、尾翼、胴体、エンジン部、とバラバラに切り刻んで持って帰ってきちゃった。大学出たての私の常識は、初っ端でバッコ〜んとぶっ飛ばされたのだった。しかも成田空港に着いた機体を直接、木更津駐屯地には運ばない。わざわざ港に運び、バージ船と呼ばれる平たい台船に載せた。バラバラにされたパーツを、飛行機の形に並べて木更津自衛隊駐屯地に帰還させるのだという。「いいじゃん、日通のトラックでそのまま成田から陸路、木更津基地に入れれば」。誰もがそう思うだろう。でも『木スぺ』にはそんな道理は通らない。海路での〝彗星〟ふるさとへの帰還を、ヘリコプター、運河の岸壁、運河を越える跨河橋、基地岸壁から4台のカメラで撮りまくったのだ。ほぼ1年後のオンエアで編集上がりを見て驚いた。新入社員が現場で「いらねえ」と思ったその到着のシーンには、迎える自衛隊が演奏する「海ゆかば」がかかり、感動的シーンとなっていたのだ。

 話を『ウルトラクイズ』に戻そう。この〝彗星〟復元計画のチーフカメラマンが金子二三夫、通称「ねこさん」だ。ねこさんは『ウルトラクイズ』のメインカメラマンでもあったのだ。ヤップ島に出向きジャングルに分け入り、〝彗星〟を切り出し、旅客機に積み込む、その一部始終を撮影して、真っ黒に日焼けした強面の男がカメラを肩に担いで木更津基地に現れた。無口なその男は、かまぼこ型のデッカイ格納庫(ハンガーという)の天井のキャットウォークに軽やかに登っていった。〝彗星〟を復元する様子を真上から俯瞰で撮影するためのカメラポイントを作ってもらうためだ。〝彗星〟が徐々に復元されていく様子を定点観測するのだ。作るのはとび職の重さん。実はこの仕事の後、重さんはパタッと行方がわからなくなった。フラッと重さんが麴町に現れたのは10年後だった。なんと本州四国連絡橋の、尻の穴がぞくぞくする高所で橋を作っていたのだという。一流の鳶は超危険な現場を渡り歩くのだ。重さんはハンガーのキャットウォークに、レンズを真下に向けてねこさんが寝そべられる台を平板であっという間に作りあげた。その板の固定が緩かったりしたら命に関わる。でもヤップ島で〝彗星〟の切り出しも担った重さんとカメラのねこさんは職人同士、信頼関係がガッチリできあがっていた。何のためらいもなくねこさんは地上25メートルの薄っぺらい板に寝そべってレンズを覗き込んだ。いい絵のためなら、命知らず。これが私とねこさんとの出会いだった。

 いよいよ復元作業が始まった。まずはバラバラにされた艦上爆撃機〝彗星〟がハンガーの床に、飛行機の形に並べられた。戦後35年以上熱帯雨林に雨ざらしにされていたため、どこもかも腐食してウエハースのように朽ち果てていた。錆びないはずのジュラルミンが指先で押すとボロボロと崩れた。このぼろ屑のような機体を復元し、自分の脚で立たせ、戦地へ飛び立った木更津の滑走路を走らせてやりたい、というのが監督・佐藤孝𠮷の熱い想いだ。本格的なピラミッドを太古の昔と同じ方法でギザの3大ピラミッドの近くに建てちゃった鬼監督だが、いくら鬼監督でも〝彗星〟を走らせるのは無理でしょ?

 エンジンは水冷12気筒、重さは1トン近くある。「ウエハースの骨が持ちこたえるハズないじゃない……」。大卒坊やの私はまたそう思った次第。でも彼の想いは微塵も揺るがない。復元班と呼ばれる、リストアに参加したいボランティアたちが入れ代わり立ち代わりやってきて、日がな1日コツコツと復元作業を進めていった。誰もが飛行機大好き男たち。模型屋のオヤジさん、自衛隊OB、整備工、自身が透析を受けなくてはならず二日に一度は東京の病院へとんぼ返りする顔色の悪いあんちゃんと、みんなクセ強キャラのオンパレード。まだ「鉄オタ」って言葉の無い時代だけど、言うなら飛行機オタクだった。彼らは口数も少なくモクモクと復元作業にいそしむ。けれど、1日や2日じゃ朽ち果てた機体の見た目は変わらない。だから、ねこさんたち撮影隊は期間をあけて木更津にやってくる。ボランティアが多く集まる週末を狙って。
 何回目かの週末に、ねこさんが呟いた。
「今日のロケ終わりで成田へ入る」

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