ハルカヒビク 第三十五話「きぼう」


なんということだろうか。私と遥は付き合っていなかった。私達は付き合ってもないのに、抱きしめ合って、何度も何度もキスをした。順番がおかしいと思う。付き合う前にそんなこと…。なんだか凄く自分がいやらしい人間に思えてきて顔が紅潮する。私は顔を手で覆う。
ドアが開く音がする。顔を覆った指の隙間から覗くと、谷さんが驚いたように私を見ていた。
「え。あんた何してんの?」
山中と噴水で別れた後、私は一人保健室に来ていた。保健室に入った時、谷さんの姿は見えなかったので勝手に座って考えを巡らせていた。
「あ、谷さん。久しぶり」
「いやそうじゃなくて…まぁ…いいか」
谷さんはそう言うと部屋の奥に進む。シンクのあるところまで進むと、棚の中からマグカップを二つ取り出す。
「コーヒー飲む?」
「え、いいの?」
 谷さんが私にコーヒーを淹れてくれるなんて初めてのことだったので素直に驚く。ここに来るなと言われてから私は一度も保健室に来ていなかった。谷さんと話すのも久しぶりだった。谷さんも思うところがあるのだろうか。
「いいよ。いる? 砂糖も牛乳もないけど」
「あ、はい。じゃぁ、いただきます」
「オッケー」
 谷さんはマグカップをシンク横におくと、インスタントコーヒーの瓶を取り出し開ける。スプーンでコーヒーの粉を何回かに分けて慎重に入れる。粉の量は谷さんの中で細かく決められているようだ。今までコーヒーを淹れてもらったことはなかったのでそのことに初めて気が付く。
「で、どうした」
 谷さんはポットでマグカップにお湯を注ぐ。注ぎ終わるとスプーンで軽く混ぜる。
「何が?」
「何がってことないだろ。私がああ言ったのにここにまた来たってことは、なんかあるだろ。無かったら逆に驚くわ。山中と喧嘩でもしたか?」
 出来上がったコーヒーを差し出され、私はそれを受け取りながら答える。谷さんもいつもの椅子に腰掛ける。
「あーいやぁ…山中とは別れた」
「は?! まじ?!」
「あはは…。まじっす」
 私はコーヒーを啜る。自分で作るよりも少し濃い。
「それで久々に顔を見せたってわけか…」
「あー…いやぁ…違う」
「違うの? じゃぁ何?」
 谷さんにどこまで言うべきなのか私は考えていた。「山中と別れて今は遥と相思相愛でーす!」なんて言えない…。女子同士だ、いくら谷さんでもどんな顔をするか分からない。だが、谷さんにはある程度の情報を伝える義務があるように私は思っていた。谷さんから言われた言葉のいくつかは私の考えを間違いなく変えた。今、遥と一緒にいられるのは谷さんのおかげでもあると素直に思う。そう考えると、私は友達が少ない割には山中や谷さん、人に恵まれていると感じる。ひとり感慨に耽る。
「なにあんたにやけて。やらし」
「は!? にやけてないし! やらしくもない!」
「まぁそんなことはいいか。どうした? なんか悩みでもあんのか?」
「え! いや、まぁ。あの、もしかすると、軽蔑されるかもしれないけど…」
「何」
「えっと、私、好きな人がいて…向こうも多分、多分て言うか、うん、私のこと好きだと思うんだけど、まだ付き合ってはいなくて、その、どうしたらいいのかなぁーなんて…はは…」
 やはり遥とは言えない。できるだけの範囲で説明したつもりだが、どうだろう? 谷さんの顔を見ると真顔で私の目を見つめていた。そして
「え、惚気てんの?」
「違うよ!」
「ていうかあんた結構節操無いのね」
「っ! それはっ! …はい。すいません」
「え、なんなの? 惚気なの? 腹立つんだけど」
「だから違うって! あの! 谷さんが思ってるより私真剣なんだけど!」
「え、だって、お互い好き同士ならもう悩む必要なんてないじゃん。何の問題でもあるの?」
「…それは」
 問題。女子同士だから? それはもう散々悩んだ。そして今の現状がある。後悔は無い。だとしたら何の問題があるのだろう。わざわざ久々に谷さんの会いに来たのだ。自分の考えをまとめずにここに来たのは確かに失敗だったかもしれないが、自分の中にきっと何か悩み事があるのは間違いない。私は考えを、自分の感情を手繰る。そして私は酷く恥ずかしい答えに辿り着く。自分でも思ってもみなかったほど、どうしようもなくアホらしい答えだ。
 告白する勇気がない。
 なんて言ったら良い? いつ。どこで? それらを考え始めると心臓が痛くなる。
 振られるはずはない。…無いよね? でももし振られたら? 何か告白の方法を間違えたらその可能性もあるのか? 分からない。人に告白なんてしたことがない。好きとは伝えた。けれど「付き合ってほしい」と言うのには何かまた別のハードルが私の中に存在した。ただ分かるのは、私から遥にそう言うべきだということだ。その焦りも確かにあった。先に遥に付き合おうと言わせたくない。だが方法が分からない。
「あー、えーっと。谷さんて告白したことある?」
「ない。私告白させるタイプだから」
「使えねぇ…」
「おい。聞こえてるぞー」
 私はイライラし始める。谷さんにではない。自分自身にだ。谷さんに相談するのすら上手く出来ないで、遥に告白なんてできっこないじゃないか。
「あー! もういいです! 言います! 言いますよ!」
「うわ! なんだよ。急に。びっくりした」
「どこで! どう! なんて言って告白すればいいの!?」
「知らん」
 私は撃沈した。天を仰ぐ。
「…そりゃないでしょ」
「いや、だって知らんし」
 谷さんはズズズとコーヒーを啜りながらこともなげに言う。項垂れる私をしばらく見つめた後、マグカップをそっと机に置いた。
「あんたさ」
「何」
「今まで私が言ったこと聞いてなかったの?」
「聞いてたよ全部」
「なら、分かるだろ。言わなくても。考えなくても」
 谷さんは呆れた表情をしながらも、私に優しく微笑んだ。
 私は…私も軽く頷いた。
 いつどこで何て言うかなんて関係ない。私は私の想いを込めて、遥にそれをぶつけるしかないんだ。
 真剣な想いには真剣に応えようと思うのが人間。谷さんはそう言っていた。それだけで十分だ。他のアドバイスなんて…意味はない。
「谷さん」
「何」
「谷さんてなんで結婚出来ないんだろうね」
「お前喧嘩売ってんのか?」
「違う。こんなにいい女なのに」
 谷さんは目を見開き私を見た。そして、口元がほころぶ。
「ふっ…あははは。そうでしょ? あんたもそう思うか。見る目ないんだよ。世の中の男は!」
「あはは。それか逆に谷さんが見る目ないのかもね」
「あんたやっぱり喧嘩売ってるよね?」
「私いい男知ってるよ」
「お、紹介してよ」
「山中って言うんだけど」
「いやそれ犯罪だから…」
「え。だめなの?」

 その後も私と谷さんは久しぶりとは思えないほど、よく話してよく笑った。
 予鈴が鳴る。サボってでも、もっとここにいたかったが、もちろん谷さんが許すはずはない。
 保健室から出るとき私を呼び止めて谷さんは言った。
「またいつでもおいで」
 その言葉が、笑顔が嬉しくて、私はちょっとだけ泣いた。

「ふぃー」
 私は境を見送った後、椅子にドサっと座り込む。
「あー笑った。ほっぺ痛い」
 私は両手で頬をマッサージする。
 境は最後まで相手が誰とは言わなかった。それについて悲しいとか寂しいとかは思わない。言ってもらってもかまわなかったし、言わないでももちろん分かるが、相手が相手だ。慎重になるのは致し方ない。
「そうかー。そっかそっか」
 私はひとりでに笑みが溢れるのを我慢しなかった。相変わらずくだらないことでウダウダと悩んでいる様子だったけど、それもあの子らしい。あの繊細な心で、橘遥と恋仲になるのは相当な覚悟が必要だったことだろう。山中と付き合いだした時は正直もう希望はないと思った。だが、境は乗り越えた。あの子にとっての大きな壁を。私は純粋に嬉しかった。山中には同情する。保健室に来たら優しくしてやろう。だが、これが私の素直な気持ちだ。境と橘遥はまず間違いなく付き合うことになるだろう。(境は無駄に振られる心配をしていたようだが…)そうなったとき、また二人で保健室に来てほしい。惚気でもいい。二人の話を聞かせてほしい。幸せな二人の顔を見せてほしい。
 それを想像して、心が暖かくなる。
 きっと辛いことも待っているだろう。世間の逆風に揉まれることもあるだろう。もしかすると別れを選ばざるを得ない事もあるかも知れない。だが、その逆の可能性だって確かに存在している。だから今は二人の幸せを願う。心の底から。先生だからじゃない。谷翔子という一人の人間として。彼女達は私にとっての…
「境、橘」
 私は窓越しに空を見上げた。
「励めよ」




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