胸の炎は消えず

 メイ・シンクレア『胸の火は消えず』は10年間くらいずっと気になっていて、5年間くらいずっとAmazonの「あとで買う」リストに入っているけれど、再版はしないし中古も高額なままなので、いまだに読めていない。一生読めない気がする。

 たぶんNHKでやっていた、宇多田ヒカルのドキュメンタリー番組のある場面をよく頭のなかで反芻することがある。そういうときはたいてい悲しいときだけれど。何気なく見始めた番組だったけど、それが貴重な映像だったということをあとになって知った。彼女が初めて歌をつくる様子を見せたものらしい。
 歌づくりに行き詰まると、ナボコフの『青白い炎』を取り出して読み始める。映像には、読書灯に照らされた机と紙、彼女の横顔、ページをめくる静かな音。後づけで彼女の声が入る。正確には憶えていないけれど、「心の蓋をあける必要がある」というようなことを言っていたと思う。「蓋をあけるときは痛みや悲しみが伴うけれど」

 気になったので、「青白い炎 宇多田ヒカル」でググってしまった。やはりあのドキュメンタリーに言及した記事があったけれど、彼女が言った具体的な言葉は載っていなかった。代わりに、「自由と責任」について書かれていた。サルトルの思想と紐づけられながら。

 社会的なポジションにしても、自分の心の内奥にしても、何かに真正面から向きあうときには、それが本気であればあるほど、痛みや悲しみ、涙がつきまとう。さっきまでちょっと心が痛かったけれど、そういうものに起因する痛みなのかと思えば、納得できるし、これまでしてきたことへの代償だという気もしてくる。やっとそこまで、傷つくところまで回復したのだと思えば、前進した感さえある。アンガジュマンせねばならないのだろう、これからもっと、生身の肉体を傷つけながら、内側に深く潜りながら。

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