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すべてがFにならなかった場合の対処法10

今日は、続き

まず、「気分」と「機嫌」は少し違うということを掘り下げよう

「機嫌」は、「他人」から見ることができる自分の現象で、
「気分」は、「自分」が感じることができる内側の状況、
という感じかな

「機嫌」のほうを先に考えてみよう
『君は、機嫌がよさそうだね』
と、「機嫌」は、
「他人」からの言葉としてよく使われるけれど、
『わたしは機嫌がいい』
と、「自分」を主語にするときは、
「機嫌」はあまり使わない

「わたしの機嫌」というふうに「自分」を主語にして使われたとしても、
多くは小説や物語の表現で、
少し客観的な印象がする

対して、「気分」は、
『わたしは気分がいい』
と、「自分」を主語にして使うけれど、
『君は気分がいい』
とは、あまり使わない

もし、誰かに言われたら、
心の中に踏み込まれたような、失礼な印象がする

やっぱり、
「機嫌」は、他人から見ることができる自分の現象で、
「気分」は、自分が感じる内側の状況、
に近いんだろう

「気分」という内側の状況が、
「機嫌」として外に表れている、
と考えられるね

さて、
「気分」という生き物が暴れそうなとき、
暴れているとき、
「気分」をなだめられる「応急装置」となる行動が見つけられたらいい、
という話を前回したけれど、
これは「気分」だから、
自分だけで行う内側の行動になる

では、
「機嫌」は、他人がいるときに、他人がいるからこそ、観察できる現象だから、
「機嫌をとる」という言葉は、本来自分だけのときには適用しない
と、考えると?

少し冷静になって、外からの自分を観察してみよう

「機嫌をとる」というのは、
機嫌をとらなければいけない状態にあるということになるから、
何か不快な状態が行動に表れているんだろうね

言葉や、行動が荒かったり、
そっけなかったりするんだろう

どうしてだろうか

それは、「機嫌をとる」行動を、
他人に求めているからじゃないだろうか

「機嫌をとる」ために「気分の応急装置」となる行動が見つけられたらいいねって話をしたね

長くなってしまったけど、伝わっただろうか

他人を「気分の応急装置」にするのは、
自分の「気分」って生き物を他人に任せる行為だと思う

これは、不快なときに抱っこをせがむ子どもと同じだよね

他人に任せず、
自分で自分を抱っこできるくらいにならないと
大人とは言えない
と思うんだ

長くなったから、今日はこの辺で終わろうと思う

夜遅くまでお疲れさま
おやすみ、また明日

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