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不埒な果実は春を見ない|ep.Eri 2/2

孤独というものは、
時として最上の交際でもある。

ジョン・ミルトン『失楽園』

 私は火伏と共にハーレーに乗り、東京へ戻ることにした。東京の自分の勤務先に戻り、退職届を出そうと思った。海岸線に太陽が沈んでいくのを見ながら、私はこれで良かったのだろうかと考えた。しかし、そんなことは考えても仕方ないことで、私たちは逃げるほか無いのだった。夜の帳が降りて、道が暗くなると、パーキングエリアで彼はハーレーを捨てて、レンタカーに乗り換えた。追手が来ているような気がしたが、火伏は「この辺りは取材でよく来てたから」と言ってスピードを上げた。私は根拠もないが、大丈夫かもしれないと思った。

新宿の料金所まで来ると、彼は「もう大丈夫だ」と言って、そのまま高速を降りようとした。当然だがETCは搭載されていないので、料金を手渡しすることになる。料金所のおじさんが、訝しげにこちらを覗き込んでくる。

「あんたら、どっから来たんだ?」

私はドキッとした。私たちが殺人を犯して逃亡していることは、もはや世界の共通認識なのかもしれない。検問はすでに新宿にも及んでいて、私たちはすぐに逮捕されてしまうのかもしれない。しかし、彼は答えた。

「埼玉から帰省してきたんです。こいつが姉で」

彼はさっき人を殺したとは思えない笑顔で、私のことを指さした。私は咄嗟に、「えぇ、まぁ。私は行くつもりなかったんですけど、弟が今年は行けってうるさくて」と笑った。

おじさんは一瞬怪しそうに目を細めた後、にこやかに笑って、「いやあまりにお姉さんが綺麗だったから、思わず声かけちゃったんだよ。はい百円」と言った。火伏は素早く百円玉を渡して、窓を閉めると走り出した。

「あっぶねぇ、なんだよただの変態だったか」

火伏の一言に笑って、私は変態コールをした。新しい夜が始まろうとしている。

職場に退職届を出すと、驚かれはしたものの、私のあまりに酷い姿を見て納得したのか、すぐに「分かったよ」と了承された。煌びやかな店内にまだ客は入っていないものの、同輩や後輩がチラチラとこちらを見ている。当然だ。まるで化け物みたいな、怪物みたいな姿なのだから。私はオーナーに、「この姿は忘れて、一番綺麗だった頃の私を記憶に仕舞っておいてください」と言って、店を後にした。


 一時間後、私は、火伏文悟と代々木の飲み屋街の片隅にある居酒屋に入っていた。赤提灯のぶら下がっているような居酒屋ではなく、あくまで大衆居酒屋に入店した。喧噪の中に身を置いている方が、絶体絶命の状況に自分たちがいることから目を逸らせるからかもしれなかった。

『なぁ、どうしてお前はあいつに固執してたんだよ? あいつ、いつまでもお前が合鍵返してくれないって困ってたよ』

火伏は、死んだ今だから言えることだけど、と笑いながら言った。居酒屋の片隅、私たちは息を潜めながらこれまでの日々を振り返った。角ハイボールをロックでちびちび舐めるじじいが、私のことを横目でジロジロと見ている。

「これでも初恋だったの」

『へっ』

火伏は、わざとらしく鼻で笑った。

『お前さ、いい歳して何言ってるんだよ? 初恋って、本気か? 風俗嬢なのに、本気で人を好きになったこともないのか?』

私は、店内のどこか幻じみた照明と、それに照らされる煙をただ、しげしげと眺めた。風俗嬢だから、なんだと言うのだ。風俗嬢の方が恋をしやすいというのか? 私は意味のわからない理論だ、と思った。私は恋愛というものが分からなかったから、この仕事を始めたのだ。男女の色恋は所詮性欲でしかないのか、それを確かめようとしたのだった。だけど、初恋の男は私を精神科にぶち込もうとした。だから、刺された。今頃きっと死んでいるだろう、いや、けれどあそこは総合病院だったから、もしかしたら治療を受けて一命を取り留めているかもしれない。生き返ってたら、彼ともう一度やり直す? それは考えられない。あの男にはきっと、別の女がいた。暴力を振るわれるようになった頃、アパートで何度もすれ違った女。彼女は、彼の髪に嗅いだのと同じ香りがした。あぁ、全て因果応報だ。あいつの死体遺棄も私は手伝わされた。死んで当然の行いを、彼はしていた。

『おい、聞いてんのかよ? エリ』

火伏は無言を貫く私にしびれを切らしたのか、氷が溶けて味が薄くなったであろうカシスウーロンを私に浴びせてきた。冷たいっ、と思わず声が出た。

『なぁ、俺たちもう一度やり直せないか。今夜はうちに泊まっていけよ。そんな水浸しで帰ったら、みんなに変な目で見られるだろ。それに、風邪もひく』

水浸しにしてきたのは、君じゃないか。私は、そんな言葉を飲み込んだ。彼と交際していた時によく、何か弱みを握って脅されていたことを思い出したからだ。

『お前が俺から逃げようとするなら、俺はお前を報道する。既に隣に女がいる芸能人とお忍びデートしていた、とかそういうの。慧流から貰ったんだよ、お前のハメ撮り。当時めっちゃ笑いながら見たけど、あれがまさか今役に立つとはな。だから、お前が俺の元を離れようとするなら、この世界に行き場を与えない。俺は新聞社出身だから、色々出来るんだよ。それに売れている作家の傍にいれば、お前は身体を売らずに済むんだぞ。これでも、俺から逃れようとするのか?』

そう、彼は数日前、芥川賞を受賞したのだった。授賞式の会見で、世間を震撼させたのだった。あの時の心情はどんなものだったのか聞きたいけれど、今はそんな余裕は無い。

「良いよ。家に着いたら、まずシャワーを浴びさせて」

彼が変な気を起こすかもしれない。彼は作家になったから、私とのセックスを小説にすると、そう言い出すかもしれない。だけど、それでもいい。私は、異性から求められて初めて、この世に生きている心地がするのだ。私を猛烈に求めている彼の右手を握り返した。薬指に、結婚指輪が光っている。奥さんとは死別していて、子供が3人いるのだということをさっきの飲み会で知った。

私は、ファジーネーブルを飲み干し、席を立った。彼が会計を済ませ、私の先をずんずんと進んでいく。未だに私をジロジロ見ているじじいに一言、「この歳で恋しちゃ悪い? 私、見た目よりも若く見られるのよ。恋のおかげかしら」

そう言って、夜道を駆け出した。

「待ってよ!」

彼の背中を追いかけていく、私の胸は、弾んでいた。


 彼の家は、先ほど後にした飲み屋の程近くにあった。彼はいつもさりげなく車道側を歩いてくれた。だけど、話題を振るのが苦手なようで、会話はいつも長続きしない。私は、彼のそんなところが好きだったことを思い出した。まだ交際して間もない頃、「何もしないから」と言われて彼の家に行ったことがあった。そしたら、彼は本当に〝何も〟してくることはなく、私は内心がっかりした。けれど、後になってそれも悪くなかったと思えたのだ。

「コーヒー入れるけど、飲む?」

「窓際寒くない? 場所変わってあげるよ」

「お腹減ったら何か作ってあげるから」

彼はとことん、私に優しかった。そんなぬるま湯の優しさに、当時の私は甘えていただけなのかもしれない。駆け引きも、喧嘩も、その部屋では生まれなかった。だけど、彼が本を読んでいる時間、彼の本棚から何気なく手に取った本の手触りと内容は今でも覚えている。あの時間が今ではとても貴重なものだったように思えてならない。若かりし頃の自分たちを、心の底から愛おしくおもった。

「おい、着いたぞ」

 と、急に片耳に詰まっていた水が抜けたように、現在を生きる彼の声が届いた。私は回想をやめる。右腕を、彼の左腕に絡めた。

『もう着いたの?』

「ああ、今夜の月は凄く綺麗だ」

月など、濁った夜空に微塵も見えない。だけど、ここは乗っておくべきだろうか。

『月は太陽がないと輝けないの』

そう言って、彼の鼻に指を当てた。
反吐が出るような、やり取りだ。

 私は家に入ると、まずシャワーを浴びた。さすが高級住宅街に家を構えているだけあって、バスタブもデカかった。もっと本が売れて、重版とかになって、王様のブランチのブックコーナーとかに彼が出るとしたら、こんなことを言いそうだ。

「これはね、風呂で突然降ってきたアイデアなんですよ。だから別に、凄いとかじゃないんですけど」

シャンプーの香りは、彼と同じローズの香りだ。何度もその香りを嗅ぎながら、私が一方的に連絡手段を遮断していた数ヶ月間の彼を思い浮かべた。正直、全くその痛みは分からなかった。私の方が可哀想で、よっぽど痛いと思った。誰の子かも分からないガキを孕まされて、堕ろすのは日常。だけど、私はバカだから身体を売ることでしか金を稼げない。漬けこまれたら終わりだから、こっちから先に客の傷に漬けこむ。同情を買う。

だけど、と首を捻る。
鏡に映った自分を見つめる。
救いようのない不細工だな、とそう思った。

病みそうになって、慌ててカミソリを腕に当てた。これでもいけるだろうか。平行に動かしてみたら、いけた。血がボトリ、と浴室の床に滴って、金魚みたいで可愛いと思った。私は安心した。ミサンガみたいな線が、腕に沢山残っていた。

 風呂から出ると、バスローブが置かれていた。やけに用意がいい。さては、女を結構持ち帰りしてるな? だけど、そっちの方が好都合だ。あの〝私じゃ勃たないバンドマン〟よりもマシであろう。カシスウーロンの匂いが染み付いた服は、洗濯機に放り込んだ。

 彼は大きなテレビで映画を観ていた。
〝月〟をモチーフにした映画で、私はすぐに彼が狙ってやっていることだと気が付いた。おいおい、出ちゃってるぞ、小説家。

私は、アイランドキッチンの奥にある情熱的な赤色の冷凍庫を開け、目にとまったパルムを取り出して食べる。にしても、部屋にある物全てが光沢を帯びている。硝子のローテーブルも、熱帯魚が泳ぐ水槽も、大理石で出来ているであろうテレビ台も、全てが光を反射して牽制しあっている。その中で唯一、光沢感のない黒のベースだけがやけに際立っていた。

私は、彼の座っているソファの隣に座った。

「ねぇ」

私は、友達に可愛いと言われたあざと顔を浮かべ、彼に話し掛ける。

『なんだよ、いま映画に集中してるんだ』

本心じゃないのは分かってる。本当は、私を抱きたくてしょうがないはずだ。その証に、彼はスラックスを両手で力強く握っていた。

「私のこと好き?」

そう言うと、彼は少しギョッとしたような顔で、私をまじまじと見た。

『当たり前じゃないか。そうじゃなかったら、やり直そうなんて口が裂けても言えないよ』

私は笑った。

「そうだよね、じゃあ本気なのか試させて」

私の笑顔が、どこか悪魔っぽい雰囲気を帯び始めたことは、彼にも伝わっただろう。彼は生唾を飲み込んで、それから私にキスをしてきた。

「そうじゃないの」

『え? あっ、もういいの?』

彼は私のバスローブを脱がせようとしてくる。ほら見ろ、映画になんて興味無いじゃないか。私も彼の服を脱がせた。だけど、私の求めているものはこれでもない。

彼が、『アレクサ、電気を暗くして』と言った。私は照明がエロい雰囲気になるのを少し待って、それから言った。

「本気なら、私のこと殴って」

『え?』

暗くてよく分からないけれど、彼は多分、鳩が豆鉄砲を喰ったような顔をしている。私が風俗嬢だから、偏見でドSだとでも思っていたのだろう。けれど、異論は認めない。私を愛することは、すなわち私を痛ぶることだ。

「殴って」

もう一度冷たく言うと、彼は躊躇いがちに私を殴り始めた。そして我慢できなくなったのか、熱いモノが、私の中に入ってくる。

「もっと、もっと」

彼の力が臆病ながら強くなってきた。その時、だった。映画の劇中歌で、電脳猿轡の音楽が流れ始めた。私は少しビクッとする。歌うようなギターの音色に惚れ惚れして、蕩けてしまいそうになる。それが、彼のスイッチを入れてしまった。映画を流した彼自身も、知らなかったのだ。

『ふざけんな!! ムードぶち壊しだよ!』

彼はテレビに向かって、手近のスマホを投げつけた。穴が空いて、ノイズが走った。歌声が、エコーをかけたみたいな不気味な音色になった。彼の怒りは、収まる気配が無い。狂ったように、私を殴り続ける。とめどない、嫉妬。それが、私に直に伝わる。これが愛だ、と思った。私は血を吐きながら、叫ぶ。

「もっと愛して!!」


 翌朝、痣だらけの身体を見て、感動した。昨晩、彼に愛された名残が、克明に残っているのだ。私はその部分を触れば、彼の嫉妬と深い愛に満ちたことばを想い出すことができる。つまり、彼にいつでも、触れられる。

彼は、台所に立って卵をかき混ぜていた。

「今日は、原宿に洋服でも見に行こうか」

彼が呟くように言う。

私は、嬉しくなって頷いた。下着を身に着け、長袖を着る。今は冬だから良いけれど、夏に長袖を着ていると、しばしば二度見される。来年の夏までに、痣や傷跡は消えてくれるだろうか。彼に視線を送ってみる。とても幸せそうに、彼が微笑む。私はこれで十分じゃないか、と思った。彼だったら、傷跡まで愛してくれるだろうから。

二人で朝食を摂った後、原宿に出掛けた。古着屋は所狭しと軒を連ねていて、どこを見ればいいのかイマイチ分からない。私は彼の行きつけのお店を聞いた。

「掘り出し物を見つけるなら、西海岸が一番だな」

彼の背中はとても華奢だけど、この人混みの中で迷いなく歩んでいく姿は、とても勇ましいものだ。原宿の西海岸に到着する。目が眩むほどカラフルなトップスの、虹。私はその間を飛ぶ蝶々のように、はしゃぎながら通る。微笑む彼にずっと気になっていたことを聞いてみる。

『ねぇ、一昨日だっけ? うち、っていうか慧流の家の電話に警察名乗って掛けてきたのって、文悟だったんだよね? 番号見たら、完全にあなただった。どうして、あんなことしたの?』

彼は、苦虫を噛み潰したような顔で言う。

「だって、そうでもしないとお前に会えないと思ったから。それに、慧流って女に暴力振るうんだろ?」

私は耳を疑った。慧流に暴力を振るわれたことなど、今までにただの一度も無い。記憶の底から浮かび上がった、暴露系YouTuberの嘘。私はこの言葉に怒りを覚えたと同時に、仮にも前まで報道をやっていた文悟の情報リテラシーを疑った。あんな根も葉もない週刊誌以下の話を真実だと思って聞いていたのか——。私は失望した。

『あなたと慧流って、友達じゃなかったの?』

私の軽蔑するような眼差しに彼は気付くことなく、「いや……、前までは仲良くせざるを得なかったんだけどね。だって、ずっとギスギスしてたらバンド活動に影響出るだろ。でも、俺はもう抜けたから関係ないんだ。一人で食っていけるし、お前一人養うくらいの金はあるってもんよ」と笑った。

私はもう呆れてしまって、半笑いになった。火伏文悟が電脳猿轡を脱退したのは、今年の春が終わる頃だった。文悟はペンネームとはまた別の芸名でバンド活動に参加していたため、世間はまさか新聞記者がバンドメンバーにいるとは気付かなかっただろう。それに、バンドというものはギターボーカルだけがフロントでその注目の7割強を浴びる程なのだから、相当な実力派でない限りは、楽器隊まで注目されることはあまり無いのだ。電脳猿轡の歌詞はほとんどが文悟によって書かれたものだったが、何故かリリースされる際には【作詞・Satoru】と書き換えられていた。それを受けてか、はたまた別の理由か分からないけれど、火伏文悟は「芥川賞に応募するための小説を執筆することに注力したい」という理由で脱退した。私が半ば缶詰め状態で歌詞を書かされるようになったのも、それからのことである。

 芥川賞を受賞した彼は、天狗になった。授賞式の後に行われた会見で、「人生をかけて復讐したい奴ら」の名前を読み上げ、世間を慄然とさせた。ニュースは自主規制をかけながらその一件を大きく報道した。当然、世間様から非難殺到、袋叩きに遭った。ただ、妙なことにそれが芸能界の大御所にはウケたのだ。そして、やがて彼はバラエティに呼ばれるようになる。ここまでが計算だとしたら、彼は相当な策士だが、そうは見えない。そして、どれだけ才能があったとしても、数年間バンド活動を共にしていた彼らが、〝 そもそも自分の人生において不要だった〟というような言い方をするのは、違うんじゃないかと私は思った。

「そういや、担当編集と恋仲になったんだよ」

『え、それほんと?』

「ああ、本当だよ。俺は別に、恋愛関係になるつもりはないけど」

一拍置いた後、彼はドヤ顔で言った。

「その子はまぁ、セフレってやつだな」

『は?』

私は本気で彼を気持ち悪いと思った。だって、私の方が胸は豊かなはずだし、抱いて気持ちいいはずだ。テクニックだって沢山ある。それなのに、なんで。

「秋月って言うんだ。その子めっちゃ可愛くて、相性もいいんだけど、行為の最中によく脚攣るんだよね。だから、毎晩ヤるには向いてないなって。いちいち毎晩脚伸ばしてやるの嫌だし。笑っちゃうやん、そんなの」

そう言いながらも、楽しそうに話す彼に心底腹が立った。私はもう話を変えようと思って、話題を振った。

『ねぇ、来春発売の新刊ってどんな内容なの?』

「ん? キャリア初の官能小説だよ。その子と過ごした夜を描こうと思ってね」

私はこの言葉で、怒りが沸点に達した。
彼の急所を思い切り蹴り上げ、そして、蹲る彼を手が痛くなるまで殴った。10円パンを持ったカップルが、ゴミを見るような目で私たちを見ながら、何組も横を通り過ぎていく。

呻き声を挙げながら、彼が立ち上がる。

「……痛たたたっ……、何してくれんだよ」

勢いよく、鳩が飛び去った。
私は怯まない。彼の愛に、正面から向き合いたいから。彼が私の髪を力強く掴む。私は強く引っ張られ、人気のない路地裏に引き摺り込まれる。ダクトから吐き出される腐臭の中、私の身体は宙に浮いた。ゴミ捨て場に、私は投げられたのだ。私は彼を睨んだ。カラスさえも、凍りついたように動かなかった。

「嗚呼、お前はほんとに美しいよ」

彼は言った。今日一番の笑顔だった。

「もっと愛させてくれ!!」

影になった彼が近付いてくる——。
それから私は、気を失うまで殴られた。彼の息はとても荒くて、セックスなんかよりもよっぽど気持ちよさそうだった。建物に縁取られて、長方形になった紺碧の空が、まるで水槽のようで綺麗だった。


 目を覚ますと、隣で火伏文悟がわんわん泣いていた。拳についた赤い血が、これから食べに行こうとしていたクランベリーパンケーキを思わせた。彼が泣いているから私も悲しくなって、問い掛けた。

「大丈夫?」

彼は鼻水を啜りながら、答えた。

『大丈夫。エリこそ、夜の仕事に戻れるのか?』

 ——分からない。この姿で面接など受けても、採用されないことは確実だ。そして、二度と出入りできなくなる可能性すらある。だけど、心のどこかでもう潮時だとも思っていた。風俗の世界は、若ければ若いほど輝けるのだ。私は、この日をもって引退しようと思った。

「私、引退するわ」

これには彼も驚いた様子で、
『え、それマジ?』と目の奥を覗き込んできた。私は頷いた。

『ごめん、俺昨日からどうかしてた』

彼は申し訳なさそうに詫びた。それから、『これからは一緒に仲良く暮らそう』と言った。素直で可愛い彼に手を差し伸べようとした、その時だった。

プルルルル、彼の電話が鳴った。

『あ、もしもし?』

 彼が電話を耳に当てる。

『え、慧流が!? 嘘、ウソだろ? なぁお前、やめろよそういう冗談! お前のだけいつも笑えねぇんだよ! 調子乗んなよマジで、後でシバくからな』

 無理をして笑っているのが目に見えて分かった。涙の粒を目に浮かべながら、その“残酷な現実”を信じないように茶化している。私にも、その電話の内容が分かった。

『ベース? まだ取ってあるに決まってんだろ、お前らとの想い出が染み付いてんだから』

彼はもう、涙を隠そうとはしなかった。赤ん坊みたいにくしゃくしゃの顔で、『分かったよ。急いで向かう』と応えて、電話を切る。

『バンドメンバーから。慧流が生死の境をさまよってるんだって』

私は、蹲って泣いてしまった文悟の背中を摩り、後ろから抱きしめた。最期の瞬間を、どうにか見届けたい。

なんとか文悟を慰めて、そして立ち上がる。雨が降りそうな匂いがした。

 病院の慧流の病室に駆け込むと、電脳猿轡のバンドメンバーが一堂に会していた。彼らは文悟の姿を見て、顔を手で覆った。

「火伏、慧流はもう眠りについちゃったよ」

みんな泣いていた。だけど。

『ごめん、俺が刺しちゃったせいで』

バンドメンバーは、首を横に振った。

「ううん、違うよ」

『いったい何が違うんだ』

「点滴が抜かれていたらしいんだ。病院側は、毎朝点滴が繋がれているのを確認しているそうだから、数時間のあいだにそれは抜けたんだと思う。考えられるのは、意図的にそれが抜かれたこと。慧流に恨みがあった人間が、この病院に忍び込んで、命を奪ったとしか考えられないんだ。なぁ火伏、誰か心当たりはいないか?」

 暫しの沈黙が満ちた。そして、彼は頭を掻き毟りながら、呟いた。

『まぁ、慧流が女の子に暴力を振るってるってデマを世間に流した、暴露系YouTuberの情報提供者じゃないか? あるいは本人か』

それは、この病室の全員が思い浮かべていた可能性だった。
夕暮れの中、窓際に並べられた楽器の影が伸びてゆく。それはまるで、私たちを捕食する闇のようだった。

「やっぱりそう思うよな」

『ひとまず、警察に被害届を出そう』

バンドメンバーの一人が頷いた。もう一人は、窓際の楽器に手を伸ばしている。

「なぁ、最後にセッションしないか。慧流のためだけに、あの曲を奏でるんだ」

 みんな頷いた。各々が楽器を手に取る。
キーボードがメインの、切なくも叙情的な音色。本来であれば、そこにアコギのアルペジオが混ざって、情景を描く。

『電脳猿轡、晩年』

文悟の合図で始まった演奏。
そこにボーカルはおらず、なんだか私は不思議な感覚になった。つい最近まで元気に歌っていた、慧流。けれど、今はもう瞬きすらもしない。誰も彼も、明日死なない保証はどこにも無いのだ。分かっていたはずなのに、忘れていた。欠けた月のような彼らは、それでも演奏を続ける。慧流の凪いだ心拍が、揺り起こされるとでも信じているようだった。音楽はいつしか、祈りに変わっていた。


 私たちは県道沿いを、まるで狐火に誘われるように小一時間ほど歩き続けた。それは、途方もなく続いていくこれからの日々を連想させた。「このまま死ねればいいのに」と思いながらも、歩き続けて汗が滲んでくると、ダウンを脱いだりして、体温を調節してしまう。そのまま飛び込むことも不可能ではないのに、交差点の信号が赤になったら何となく立ち止まってしまう。

「はぁ」

文悟がため息をつくと、信号機が青になった。
どれほど歩いたのかがどうでもよくなってきた頃、左手に燃え盛る赤い塔が見えた。私は朦朧とした意識で、手を伸ばした。暖房器具の類だと思ったのだ。

「東京タワーじゃないか」

バンドメンバーのひとりが言って、私はそれに名前があることを知った。

『東京タワーって何?』

私が尋ねると、みな同様に驚いた顔をした。

「エリちゃん、東京タワーも知らないの? 校外学習とかで展望台登ったでしょ」

笑って言われたが、私は本当にそれを知らなかった。思えば、両親にこういった観光スポットに連れて行ってもらったことが一度も無かった。父親は、酷い男だったのだ。うちの家庭は、とおの昔に崩壊した。

私は、両親について話をした。その間、文悟はずっと顔を手で覆っていた。

父親は、私が幼い頃から遊び人だった。妻子を持ちながら、家を1ヶ月空けたりすることもしばしばあった。ただ、その頃はまだ帰ってくるだけマシだった。私が物心ついた頃に、父親は姿をくらませた。「ちょっと出掛けてくる」とだけ書かれた紙切れを残して、ある日いなくなったのだ。母親曰く、連絡は着くらしい。でも、口調は他人行儀で、母親の話をロクに聞かないという。母親は困った様子だった。「会話にならない」とまで言っていた。そして、私のハタチの誕生日が最後だった。私は、成人を機に東京で一人暮らしを始めることを報告した。すると、とんでもない暴言を投げつけられた。

「東京に出て何をするんだ? 文学を学びたい? 馬鹿か、お前は。本読む女なんて可愛くねぇんだよ。東京なんて性欲に従順なゴミオスしかいねぇんだから、そいつらに身体売ればいくらでも稼げんだよ。エリ、キャバ嬢になって俺に美味い飯食わせてくれよ! ハハハ」

これには母も堪忍袋の緒が切れたようで、ヒステリックな叫び声をあげた。

「あんた、うちの可愛いエリになんてこと言うの! 育児の大変さを知る前にちゃっかり逃げて、勝手に女作って遊んで、それでそんなクズみたいな発言して、ほんっと何のつもりなの! あんた、どこにいるのか知らないけど、捜索届今から出したっていいんだからね。お巡りさんにここまで連れ戻してきてもらった暁には、息の根が止まるまで痛めつけるんだから!」

電話の向こうが、とてもうるさかった。パチスロとかそういう類の店の騒音。私には、電話口の相手が自分の父親だと信じることが難しくなっていた。父親というのは、もっとかっこよくて尊敬できる存在に対しての呼称ではなかったのか。長い騒音の後、ただ一言「勝手にすればいい。俺はもう、養育費を払わないし、二度と電話にも出ない」と言って電話は切れた。それ以来、父親との電話はずっと繋がらない。

私が話し終えると、電脳猿轡の残されたメンバー達は足元のマンホールを見つめていた。そこに空いた小さな穴から覗く深淵に呼ばれているようだった。

私は葬式みたいな雰囲気に耐えかねて、「とは言え、結局は風俗嬢になったんで、父親の言う通りだったというか。それが尚更悔しいんですけど」とわざと茶化すように笑った。けれど、それでも誰も笑わなかった。おまけには、クヨクヨと泣き出す始末だ。

「もう、そういうんじゃないのに!」

限界だ。そう思った。私は駆け出した。東京タワーの赤い光に、猛烈に飛び込みたくなった。
名前を呼ばれた。私の名前をむやみに呼ぶ者は、誰だ。決して振り向いてはいけない。あんな日々に戻るわけにはいかない。私は走り続けた。東京タワーが目前で、口の中いっぱい血の味が広がった。母親がある夜、咳止め薬を大量に服用して死のうとしたことを思い出した。幼い頃、父親が私の口にペニスを押し込んできたことも。いけない。口の中が酸っぱくなってくる。だけど諦めるわけにはいかない、光はすぐそこに見えている。私は最後の力を振り絞る。でも——、

もうダメだったんだ。運命は最後まで、変えられなかった。
私は右手から、春の日差しのような眩しい光を見た。それは柔らかく、私を包んでいくのだ。お母さん、慧流、今そっちに行くからね。


ほんの一瞬のことで、何が起きたのか分からなかった。思わず閉じてしまった目蓋を開いたら、目の前で火伏文悟が頭から血を流して倒れていた。鉄っぽい臭いが、酷く鼻についた。私は、何がどうなったのか分からないままに彼の元へ駆け寄る。

「文悟! ねぇ、起きてよ!」

揺さぶっても、彼は微動だにしない。自分を犠牲にして、私を守ってくれたのだと認識するまでにだいぶ時間がかかった。彼を轢いた黒いプリウスのヘッドライトが消えた。その運転席から逃げようとした女を、私は命懸けで追いかけた。

彼女は私を撒くためにデタラメに右や左に曲がっていく。だが、最終的に負けたのは彼女だった。私が道をショートカットして彼女との距離を縮めたタイミングで、右折した先が耐震工事をしている橋だったのだ。彼女は迂回しようとするが、私はそこに追いついた。

「ねぇ! 何してくれてるの!」

私は息を切らしながら彼女の肩を揺さぶる。

『離して! あんたもあいつも、みんな死ねばいいんだわ!』

そう言いながら、彼女はポケットから光るものを取り出した。それがナイフであることはすぐに分かった。彼女が切っ先を私に向けようとする前に、思い切り頭突きをした。

『痛い!! 何してくれるの!』

私はすかさず彼女の顔を殴った。バランスを崩したところで、思い切り脇腹に蹴りを入れる。彼女の鼻から血が流れて、「ああ……こいつも人間だったんだな」と分かって、もう少し手加減してあげれば良かったなと思った。私は彼女に馬乗りになる。

「お前……、あの暴露系YouTuberだろ」

私が彼女の目を覗き込みながら言うと、彼女は少しビクッと身体を震わせた。

「瞳の色が違うから分かるよ。動画で覆面つけてたから、それくらいしかヒントが無かったんだ。慧流は外国人みたいな顔立ちの女の子がタイプだって言ってたから、もしかしたらって思ったの。そしたら、ビンゴ。なんでちょっと目立とうとしたの?」

私が嘲笑うように言うと、『うるさい黙れ! お前の身体が忘れられないって理由で、慧流は一回も私を抱いてくれなかったんだ! だからお前は死ぬべきなんだ!』と叫んだ。

私は彼女をなおも殴りながら、警察に通報した。
「通り魔に刺されそうになった」と。

「警察があと10分くらいで到着するらしいから、それまでゆっくり話そうか。入院してた慧流の点滴抜いたのもあんたなんだよね? ほんと、やることが陰キャでキモいんだよ」

しかし意外にも彼女は泣きそうな顔で、それを否定した——。

『違う! 私じゃない。さとるんは、他にも何人かの女の子と付き合ってたの。しかも一人ひとりに接し方も変えて、歳上には犬系で甘えてたし、私みたいな学生はストレスの捌け口にされた』

彼女は続ける。息が苦しそうだ。

『私以外にも、さとるんに恨みがあった女の子はいたと思う。あの人は、親戚とかストーカーとか言って、私に色んな女を紹介した。だけど、その全てが浮気相手だったの。私は呆然としたわ。あれはもう、虚言癖だわ。病気なんだわ。だから私が代表して、世間に〝告発〟してあげたの。いつ殺されてもおかしくなかった』

私は思わず噴き出した。こいつが数週間前に派遣のアルバイトに登録して、その後日雇いで病院の清掃スタッフに応募した事実は掴んでいる。それに、彼に別の女がいたなんてことは正直どうでもいい。バンドマンなんてそんなものだと思ってたから。それに、「私と同じじゃん。それってほぼ売春婦じゃん」

「まぁなんでもいいよ。あとは警察が余罪も含めて明らかにしてくれるだろうし。〝さとるん〟なんて馴れ馴れしい呼び方してんじゃねぇよ。ミーハーのつまんねぇ奴じゃん、てめぇ。友達がストーリーにあげてたスタバのカスタム速攻で真似して喜んでるタイプやん。ゴミが。それに、〝告発〟とか〝代表〟とか何の権限があんだよ。いつからお前が女を代弁できるようになったんだ? でも今度は〝世間様〟に審判下される側になるんだな。アホ面白ぇ。マジで明日の朝のニュースが見物だよ」

やがてパトカーが到着した。
彼女は手錠をかけられ、私は顔を覗き込まれた。

——ちょっと、被疑者の出血が多くないか?

「揉み合いの末の結果です。正当防衛のはずです」

——そうか。ご苦労だった。

 こうして、私の初恋は終わった。今も胸がドキドキしていて、収まってくれそうにない。慧流の告別式が済んだら、火伏文悟と本格的に将来を考えよう。穏やかな春が来ますように、と私は祈った。

 翌朝、テレビをつけると昨日の事件が報道されていた。『速報』と赤のテロップで何度も報道されたその事件は、世間を震撼させた。

【『あいつは殺さなきゃならなかった』通り魔の女、執念の現行犯逮捕】

 昨夜未明、東京都港区芝公園近くの路上で、ナイフを持った女が通行人を切りつけようとする事件が発生しました。被害に遭ったのは、夢野恵梨さん(51)。容疑者は、その数時間前には自動車で故意に通行人を轢き逃げしており、即時現行犯逮捕されました。被疑者は容疑を一部認めていますが、『あいつは殺さなきゃならなかった。私は女の子の気持ちを弄んだバンドマンと、その周囲の人間全員をこの手で始末するまで死なない』と他の犯行をほのめかす発言をしています。警察は余罪があると見て、捜査を進めています。

Episode Eri's End.

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