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3.11

東日本大地震から10年が経った。

冒頭から個人的な話で恐縮だが、2011年2月末に移住先の住居が決まり、引っ越し準備を進めている最中だった。移住先は高知県だったが、海から数百メートルしか離れていないので、引っ越しは無理かもしれないと思ったのを憶えている。

当時、東北地方に知人は少なかったが、quiet funkの投稿サイトに何度か投稿してくれていた宮城県の伊藤さんという方がいた。たしか、地震の数ヶ月前から数度メールのやりとりをしていた。

釣れたバスの投稿写真が毎回、自宅玄関のような場所で撮影されていたので、持ち帰って食されるんですか?と僕がメールで聞いたのが最初だと思う。

個人の方(お客さま)に質問するというか連絡を取り合うことは普段ほぼないので、僕としては珍しいことだったが、満面の笑みでキープしたバスを持つ写真に聞かずにはいれなかった。

外来魚バス駆逐によるキャッチアンドリリースを良しとしない土地柄なのだろうか..と思ったのが本音である。

お聞きすると、実際はバス駆逐の為ではなく、近所に住むアジア系外国人に美味そうだから欲しい..とせがまれてキープしていたそうである。

その後、何度かメールのやりとりをして、伊藤さんの趣味である旧車の写真を送って頂いたりして、僕も旧車が好きですと返事をしたりした。

***

その数ヶ月後(もしかしたら数十日後)に、あの地震と津波が東北を襲った。

東北の知人を思った時、真っ先に思い浮かんだのは、前述の伊藤さんであったが、すぐに連絡するのをためらった。

『大丈夫ですか?』と気安く聞ける状況でないことは安易に想像ができた。最悪の事態は考えたくなかったが、脳裏をかすめた。

もう少し落ち着いたら連絡しよう。。そんな悶々とした日々を過ごしていたが、落ち着く気配はなかった。連日報道されるニュースはコトの重大さを日増しに増幅させていった。

そんな日々の中、一通のメールが届いた。

メールの送信主は、伊藤さんの弟さんだった。一瞬ギクリとしたが、伊藤さんが無事であることを知って心底ホッとした。

しかし、伊藤さんの自宅は津波で流され、愛車の旧車は泥に埋まり、ご家族は全員無事だったが、親族の何人かは行方不明のままだという。

弟さんからのメールには、釣具の全てを津波で失い意気消沈しているquiet funk 好きの兄に何か励ましの言葉をいただけたら..と綴られていた。

伊藤さんの無事を喜ぶと共に、すぐに連絡しなかった自分を恥じた。なぜもっと早くに連絡しなかったのかと。。

弟さんへの返事は言葉を選んでいるとなかなか書き進めなかった。とにかくお兄さんが無事であったことと連絡をくれたことに感謝していると伝えた。

何かできることは無いかと考えた。ガスや水道が不通の際に一番欲しいもの。。温かいものが食べたいのでは。。

カセット式ガスコンロと簡易鍋と即席カップ味噌汁などを詰めこんで、避難先の体育館に送った。安直な考えかもしれないが、僕自身、阪神淡路大震災で被災した際に一番嬉しかったのは温かい食べ物だったからである。

それから暫くして、伊藤さんが避難先の体育館で甘夏(味噌汁と一緒に送ったもの)を手にしてニッコリ笑った写真が送られてきた。背後に写る間仕切りの段ボールにはquiet funkのステッカーが貼ってあった。

本当によかった。目が潤んだ。人と人との繋がりを実感した。

その後、ペイフォワードプロジェクトとして、被災して釣具を失った人に釣具を届けるという企画を立ち上げ、微力ながら続けてきた。

震災から半年後に、名取市の復興イベントにも参加出店させていただいた。伊藤さん兄弟には、そのとき初めてお会いすることができた。

その後も交流は続き、数年前には高知に伊藤さんご兄弟で来ていただいたり、一昨年は福島のイベントでお会いしたりした。また、毎年いちごやお米などを送って頂きこちらが恐縮することもしばしばであるが有り難く頂戴している。

ペイフォワードの精神で繋がりの輪が、これからも広がっていくことを願って止まない。

現在、伊藤さんは自宅を再建され、愛車の旧車も再びレストアされているとのこと。海沿いのバスが釣れた水路に魚影は戻っていないようだが、また釣れる日を信じて。次回、東北を訪れた際にはバス釣りをご一緒したいと考えている(了)

くぼた

***

震災から10年が経って、経済的に箱的に復興したかもしれないけれど、精神的には癒えていない方がたくさんいると思います。また昨今のコロナ禍で辛い思いをしている人も多いでしょう。それでも生きていくんだ、というエールを歌に託して・・

玉置浩二 『田園』










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