異者を受け入れることで、日常の奇怪さを浮き彫りにする

スティーヴン・ミルハウザーの短編集「私たち異者は」を読みました。この短編集ではほとんどの作品が比較的、平凡な街や家庭、日常が舞台となっています。ところがそこに、表題作である「異者」、「平手打ちの男」、「白い手袋」などが出現することによって様相が大きく変わってきます。厳密にいうと、異者によって変わってくるのではなく、元々あった何かのおかしさが、顕在化すると言ったほうが良いのかもしれません。
私たちは、自分たちでは当たり前と思っていることが、実は当たり前でもなんでもなく、側から見るとおかしなことをやっていることがあると思います。それは外国人から見た私たちの暮らしもそうかもしれませんし、ケンミンショーで紹介されるような他県の食生活のようなものもそうかもしれません。あるいは、会社で仕事をすることもそうで、自分たちの会社では当たり前のようにやっていることがちっとも当たり前ではなく、むしろどちらかというと特殊なこともある気がします。
しかし、そういう変わっていることが、変わっていると気づかずに、なんとなく過ごしていることが多いのかもしれません。
今回の騒動によって、いろんなことが変わろうとしています。例えば、密集を避けるように言われていて、休みの日の大都市の主要駅の人が80%減少したというニュースがやっています。以前に比べて80%少なくなると、さすがに少なすぎると思う反面、最近のニュースで見かける光景の5倍も以前はいたと思うと、それは多すぎだろと感じてしまいます。でもこういうことには気づかず、休みの日に都心に出て、人の多さに疲れてしまうことも当たり前として受け取っていた感じがします。
家の中や家の周りにも楽しいことはたくさんあり、むしろ今までそういう楽しさを味わっていなかったことにもったいなさを感じるくらいです。
ミルハウザーの小説は、どのシチュエーションも、不思議な異者によって、独特の世界が描かれるのですが、読み進めていくうちに独特の世界というのは実は「異者」や「平手打ちの男」ではなく、私たち自身の暮らしや考え方ではないかと感じてしまいます。
その違和感、不思議さに気づかず過ごすのではなく、異者を受け入れることによって、私たち自身の当たり前を捉え直すことが大事ではないかと思いました。

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