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親はかっこ悪い

こんばんは、ヒイラギハイチです。
今日は休みで、午後から子どもと公園に行っていました。日差しがキツい間、公園で遊ぶこともままならなかったですが、最近は外で過ごしやすくなりましたね。上着一枚あってちょうど、くらいだったなぁ。

さて、久しぶりに公園へ行くと、子どもの思わぬ成長を目の当たりにしてびっくりすることがあります。
前は怯えちゃってできなかったアスレチックや、鉄棒の前まわりができるようになっていたり、移動時の足の速さなんかも、驚く速さでピューっと行ってしまいます(なんでかいっつも移動が小走り、ついていけない)。

子どもの成長を実感するたび、大きくなったなぁ、としみじみしてしまう自分がいます。そんなときは決まって、生まれた時の記憶や、まだまだ赤ちゃんだった頃の思い出が蘇って、余計に、しみじみするものです。
あんなにちっちゃかったのにねって。


子どもを授かってから産むまでの間、様々なことを考えました。本当にいろいろ。
まぁ、考えない訳がないんですけど。
そして考えている中で、人の親になることについて、自分なりの指針が1つできました。

それは、なるべくダメな親でいよう、ということ。

こう書くと、は?となってしまいそうですが、詰まるところ反面教師になろう、ということ。
子どもが大きくなって、いずれはこの手を離れていくことを考えたら、自分の頭でいろいろ考えてやっていけるようになってもらいたい。
そうなると、何もかもこちらが与えているばかりではダメだし、むしろかっこ悪い手本を見て学んで、良い方を選び取ってもらいたい。
こちらのダメなところを子どもに見せて、逆にしっかり者に育ってもらえれば、と考えたのです。

その効果が出ているのかどうかは、今の段階ではまだわかりません。
でも、自分は本当にダメなところが多く、(例えば忘れ物が多く、ちっちゃなドジも山ほど起こしている)子どもには、「も〜!おかあさん!」と呆れられることも結構あるように思います。その度に「ごめんね〜」と謝って、
「もー!いいよ!」と許してもらえているので、一応、いい傾向かもしれません。

また、ダメなところをそのまま見せようと思うと、気取らず子どもと対等でいられるので、子どものことを尊重しやすい、というメリットがあるのかな、と感じています。
子どもって、幼いと特に親の所有物のようになりがち。自分と生活を同じくしているし、そもそも自分が手を出してあげないと成り立たない事柄がたくさん出てくるのです。だから、親の采配というか、親に主導権がある、ということが当然になる。
でもそれって本当に当然のこと?
きっと違った、子どもには子どもの都合というものがあるはず。
もし何かを選択する場面で、自分の都合だけではなく、子どもの都合も確認して考えることができれば、例え選んだ結果が同じだったとしても、それは全く同じではない、と思うのです。
子どもを子どもとしてじゃなく、自分と違う一個体の人間として見る事は、当たり前のようで意識しないと難しい、大切なポイントなのだと思います。

長くなりました。
本当は子どもと公園に行って、逆上がりのお手本を見せようとして失敗し、尚且つ腕を痛めた、というかっこ悪い話をしようと思ってこの記事を書き始めたのですが、思いもよらない方向に転がってしまいました。
子育て論?なんて大それたものはないですが、これからもダメでかっこ悪いところは隠さず見てつけて、「この人に任せていて大丈夫か?」と不安に思われるくらいになりたい。そうなったら子ども自身の人生もしっかり切り拓いていってくれる気がして、こちらも安心です。
そうして大きくなって、自分と人とを大事にできる人に育ってくれたら、と子どもの成長を静かに見守る日々です。

ちなみに鉄棒の失敗の他、のぼり棒は30センチしか上れませんでした。
かっこ悪いですね。
おしまい。

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