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オススメの本: 中国食いしんぼう辞典(崔岱遠著・川浩二訳) みすず書房


 北京っ子の食通編集者が中国全土の美味を綴る本書は、格調の高い文章で読者の記憶を掘り起こし、想像力さえ刺激してくれる点で、現代社会に氾濫するレストラン・レビューとは対極を成す名著である。本書の構成は、著者が特筆すべきと考える中国の料理を計83皿選び、それぞれ4ページほどのコラムに書き上げたうえで、「家で食べる」「街角で食べる」「飯店(レストラン)で食べる」の順に分類するというものである。

 原著は2014年に出版されていて、みすず書房から邦訳が出たのは2019年である。私は学生時代に食への興味から中国に通い続け、情熱のあまり上海に拠点を移そうとまでしていたが、今般のコロナ禍で延期を余儀なくされている。失意の日々を送っている最中に、ふと丸善本店で手に取ったのがこの本だった。

上海の佳家湯包で食べた蟹肉小籠包。脳ではなく、味蕾の一つ一つが再会を求めている料理である。

 本書のよいところを大きく三点に分けて紹介しよう。第一に、見事な文章力である。一例として「飯店で食べる」から「獅子頭(豚肉団子の蒸し煮)」の描写を一部引用してみよう。「その食感の軟らかさはまるで豆腐のようで、軟らかくむっちりしながらこってりとした味わいで、うまみのある澄んだ肉汁が、付くがごとく分かれるがごとき肉の粒の隙間からあふれ出て、喉にまで湧き落ちていき、胃腸はたちまちこの上ない滋養に満たされる。(p. 299)」読むだけで腹が減ってくる。三百ページ超ある本書は、全てがこの調子で進んでいくのである。この美文を読むに際しては、著者だけでなく、訳者の実力にも敬意を払うべきだろう。

 第二に、「家で食べる」や「街角で食べる」のコラムでは、各料理を著者の見てきた一昔前の北京の風景と結びつけることで、読者を懐かしい記憶の世界へと誘ってくれる。例えば、「街角で食べる」の「氷棍児(アイスキャンディー)」のコラムは、著者の「幼いころの美しい記憶」から始まる (p. 197)。「夏の日の午後に教室の机につっぷして窓の外を眺めたら、木々の間から流れるセミの歌声に聞き入っていると、ふと枝葉のすきまからぼんやりとした呼び声が届いてくる。『氷棍児、三分、五分…氷棍児、ミルクにあずき』…」という調子である。

 このくだりを読んで、私は毎夏のように京都の親戚へ遊びに行っていた頃を思い出した。家で夕食を食べさせてもらってしばらくしてから、おばさんが銀閣寺近くの小さな店で買ったアイスキャンディーをいくつもトレイに並べて出してくれたこと、そしてアイスキャンディーに刺してある木の棒が、液体の凍る前に挿してあるからか、いずれもあらぬ方向に傾いていたこと...。記憶の森から帰ってきた時、私は喫煙者でもないのに紫煙をくゆらせたい気持ちになってしまった。このように、著者の身体・生活的記憶に結びついた食評論は、読者の奥底に眠っていた記憶を掘り起こす力がある。

 第三に、「飯店で食べる」のコラムでは、中国各地の名菜が歴史上の人物の舌を喜ばせた様子がありありと描写されており、読者に往時への想いを馳せさせてくれる。例えば、杭州の名物料理である「龍井蝦仁(龍井茶風味の川エビの炒め)」の由来は、一説によると次のような故事だと筆者は紹介している。清朝の乾隆帝が身分を隠して龍井近くの村娘のところで雨宿りをすると、ちょうど新茶の時期である清明節(4月初旬)の頃だったので、出してもらった茶の美味さに感動して分けてもらった。

 それから宿で剥きエビの炒め物を注文したところ、店員が皇帝の龍の模様のある上着を目にしてしまい、彼の正体を聞かされた料理人が緊張のあまり誤ってネギの代わりに茶葉を炒め物に入れてしまい、それが皇帝の気に入ったという次第である。この手の故事は恐らく実話かどうかを確かめるのが難しいものだろうが、少なくとも読者は王朝時代で皇帝を目にした料理人の気持ちに思いを馳せることができる。

 以上の美質を備えた本書は、我々が日々のレストラン探しで溺れている、愚にも付かない情報の洪水とは対極をなすものである。我々が目にしているのは、インスタグラムでも、レストランのレビューサイトでも、素人が所構わず撮影した料理の写真であり、高級店に通い、常連客で馴れ合うことを目的にした大人であり、およそ食べているものに見合わない質の文章である。そこには内省や歴史への経緯など微塵もない。本書が改めて実感させてくれるのは、人間が本当に美味いと感じる料理は、実に個人的なものであり、また通時的なものであるという事実である。

p. 314 より、李楊樺による牡丹燕菜のイラスト。

 ただし、本書には中国の本を日本人が読むことに起因する問題があることに留意すべきだろう。すなわち、我々の中国の料理に対する知識は非常に限定的で、それぞれのコラムを一読した時に、必ずしも料理のイメージが脳内に浮かぶとは限らないのである。
 本書を読んでいて、私もこれまでの中国旅行で食べたことのある料理に関する記事はすらすらと読めたが、そうでない料理で複雑なもの(とりわけ「飯店で食べる」の料理)は姿さえ上手く想像できないものが多少はあった。各項目には中国人のイラストレーターが洒脱なイラストを添えているが、やはり写真を調べてみるまでは料理の姿が判然としない。
 すなわち、本書にはどこか第二外国語のテキストのような趣きがあって、知識のある人間には内容が手に取るように分かるが、そうでない人間にはさっぱり分からない傾向がある。もっとも、一つ一つ料理の写真を調べながら本を読むことさえ、コロナで中国に行けない私にとっては至福の時間であった。ちなみに私がもっとも写真に食欲をそそられたのは、牡丹燕菜という洛陽の名菜だった。


こんなもの、腹が減るに決まっている。

 色々書いてしまったが、まずは本書を読んでいただきたい。きっと心を動かされるから。そして中国に行きたくなるから。


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