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一年…三百六十五回の失望からなる一期間。


『悪魔の辞典』という”悪魔の辞典”をご存じだろうか。

風刺と機知に富む社会批判で、アメリカ草創期のジャーナリズムで辛辣な筆を揮ったアンブローズ・ビアスの箴言警句集。1881年から1906年に至るまで、とある週刊誌に寄稿した文章が一冊の書物に集められて出版されたものが始まりで、ビアスによって辞書的意味にとらわれずに(大いに偏見、風刺をはらんだ態度で)解釈された数多くの言葉が掲載されている。
版によって収録された見出し語の数と種類に大きな違いがあるようですが、今回は岩波文庫『新編 悪魔の辞典』に収められた単語の中から、個人的にお気に入りのものをいくつか紹介したいと思います。

すごく簡潔な解釈語群

この辞典、作者の気まぐれでとても解釈文が長いものから短く簡潔なものまでさまざまなので、まずは後者の簡潔な単語から一気に見ていきましょう。

安心…隣人が不安を覚えているさまを眺めることから生ずる心の状態。
希望…欲望と期待を丸めて一つにしたもの。
告発者…かつての友人。とくに、親切心から何か世話をしてやったことのある人物。
食欲…労働問題に対する一解決策として、神様が思慮深くも植え付けておかれた本能。
診断…医者が、患者の脈拍および財布に中身のいかんによって、病気に対して行う予測。
天啓…自分は愚か者であると、人生の黄昏時になって発見すること。
歯医者…あなたの口の中に金属を入れたかと思うと、あなたのポケットの中から何枚かの硬貨をつまみ出す手品師。
ヤマアラシ…動物界のサボテン。
予言する…結婚の前夜に悪魔のことを夢に見る。

『新編 悪魔の辞典』ビアス著 西川正身編訳

(ヤマアラシ…?)
上記の引用はほんの一部ですが、これだけでも十分にビアスの筆の切れ味の鋭さを体感していただけると思います。
一般的に好印象を与える類の言葉に対しては特に容赦がない。また社会的富裕層に対する当たりも殊更強いですね。ただの偏見を書き連ねただけだと言ってしまえばそうなのですが、言葉選びの面白さや取り上げる例の卑近さに思わず笑ってしまうこと間違いなし。
個人的に食欲の解釈が面白かったので引用しました。確かにね。食べていくことと働くことはそりゃもちろん密接に関わっていることは言うまでもありませんが、それを「労働問題に対する一解決策」としてズバッと言いのけてしまうところが何とも爽快で気持ちがいい。”神様”への皮肉もしっかり忘れないところがこれまたビアスらしくていいですね。何といっても”悪魔の”辞典ですからね。
ところで動物界のサボテンとは…いったいどんな気持ちで書いたのでしょうか。疲れていたのかな。私にもわかりません。

とても長い解釈語群

続いて解釈文の長い単語です。特に気に入っている一つをご紹介します。

ハンカチ…ちっぽけで四角い、絹もしくは麻の布切れで、通常、これを使って、顔のあたりで様々な不名誉な役目を果させるが、わけても葬式のさい、涙が一向に出てこないのを隠そうとする時に重宝する。ハンカチは、近年になって発明されたもので、われわれの祖先たちは、そんなものをついぞ知らなかったから、今日ハンカチの果たしている務めは、すべてこれを着物の袖口に託したものだった。シェイクスピアがその作品『オセロ』の中でハンカチを作中人物に使わせているのは、時代錯誤というほかなく、事実は、デズデモーナは鼻をかむのにスカートを用いたのであって、それは、現代のメアリ・ウォーカー博士その他の改革者たちが、礼服のすそを用いているのと同様なので、これを持って見ても、改革というものは、逆行する場合も時にあることがよく分かる。

長い。誤字脱字等が無いことを祈るばかり。

これ初めて読んだときめちゃくちゃ笑いました。出オチかと思いきや結局最後までノンストップで捲し立ててくる。
デズデモーナのくだりも最高に面白いです。オセローの作中でイアーゴーがデズデモーナとキャシオーの不貞の証拠をでっちあげるためにハンカチを使って策略を巡らせたことは有名ですが、それをこんな切り口で「時代錯誤というほかない」などと批判したのは間違いなくビアスが初めてでしょうし、これからもまずお目にかかることはないでしょう。これにはイアーゴーもきっとびっくり。
最後の「改革というものは…」の捻じ込んだ感すらじわじわきます。
よく ”ハンカチ” 一枚でこんな長々語れますよね。もっと長い解釈文の単語自体は他にもあるのですが、個人的にこれが一番お気に入りなので紹介させていただきました。


いかがでしたでしょうか。ビアス節の爽快感を味わっていただけたら嬉しいです。
余談ですがこの本は芥川龍之介の『侏儒の言葉』にも大きな影響を与えたらしい。こっちはまだ読んだことないから今度探してみようかな。


以上です。読んでくださった方ありがとうございます。


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